一歩ふみだす

枯れ葉がかさりと音をたてて落ちた。その音に、小さい人ははっと振り返る。黒めがちのまんまるの目をじっと見開いて、音の原因をさがすらしいのだが、そのときにはもう音はせず、枯れ葉も動かない。正方形の広場の真ん中には、馬に乗った軍人の銅像が建っている。冬の日の昼下がり、シエスタの時間の広場には人はまばらである。小さい人は、しばらく広場の中心の方をみていたが、やがて頭を振ってしゃがみ込み、足下のタバコの吸い殻に手を伸ばした。

ダメ! 思わず小さく叫んで、小さい人が触る直前に、その吸い殻を踏んで隠す。小さい人は、伸ばした手をもてあまし、地面のタイルの目地を指でなぞり始めた。午前中に降った雨で湿ったタイルの目地の泥が小さな指先につく。それを目の前に持ってきてじっと見たかと思うと、こちらを見上げてにやっといたずらっ子の顔で笑ってその指を口元に持っていく。

ダメ! その小さな手を振り払う。しかしまた、口元へ運ばれる泥のついた指。振り払う私。小さい人は知っているのだ。わたしがあわてて止めることを。わかってやっている。楽しんでいる。

しばらく攻防を続けたあと、私は自分の手で小さい人の手を拭い、諦めて指をくわえようとするのをそのままにした。小さい人はそのまま指をくわえたものの、私がダメと言わないのにすこし物足りないようで、拍子抜けしたように、指をくわえたまま立ち上がる。周りをぐるりと見渡して、何かに狙いを定め、両手をひろげ、それに向かって駆け出した。

小さい人が来てから、もう1年になる。小さい人が毎日つぎつぎとやることを運んできてくれるおかげで、私は何も考えずに、日々を過ごすことができる。そして、何も考えずに生きていることに疑問を抱いても、すぐに忘れさせてくれるだけのこまごまとした用事をつくってくれる。

小さい人がきた頃、私はひどく傷ついていた。傷ついただけでなく、自分を肯定する感情も根こそぎ奪われ、自己否定の波にのまれた。かつてはなにかを表現することが好きであったのに、それも怖くてできなくなった。絵を描くのも、文章を書くのも、あんなに好きだったのに、表現しようとすると何かにおびえてしまい、まるで別人のようになってしまった。友人には顔が変わったね、と言われた。好きなもの、好きなこと、がなにもなくなった。

弱っていた間に、以前のブログのサーバの契約が切れ、バックアップをおいていたマシンも死んだ。かつてのデータはすべて消え、わたしはそれにすこしほっとしていた。それほどまでに、自分の中にあるもの、関わるものを表現することにおびえていた。

かつてはなんでも文章にしてきた。書くということが私にとっては生きることだった。思考も感情も文字にしすることが、それらを消化する一番の方法だった。それをしなくなって2年近く、感情が消化不良を起こしている。

今こうして、久しぶりに文章を書きながら、こうして吐き出すべきだ、と言っている自分の横で、表現することにおびえ、すべて消去しようとする自分がいる。今まで何度か書こうとしてきたけれど、その度、結局は全選択、全消去、してきた。今回もまた、そうしてしまうのではないか、と恐れている。

いろいろなものを文章という目に見える形で吐き出し、それを記録し、残すことがいいことなのかどうかわからない。さらにそれを公のものとすることも。自分だけの記録なら、鍵をかけた日記帳にでも記しておけばよいのだ。ただ、それでは消化できない何かがある。

誰かに読ませたいのだろうか。自分でもよくわからない。公の場所に置いておきながら、読んでほしくないと思う人はいくらかいる。しかし、その人たちの目に留まるかもしれない危険をおかしてまで公にすることを、今、選択しようと思う。この、いろんなものから逃げ、おびえきっていた自分から脱却する最初の一歩なのではないかと思う。

私は、小さい人に甘えているのだ。小さい人が来てくれたことに甘え、小さい人を守る振りをして、本当は小さい人に守られているのだ。

強くならねば。

この記事を「公開」にして、そこからまた、始めようと思う。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中