小さい人の学校探し

先週の金曜日、以前から気になっていたモンテッソーリの学校を見学させていただいた。

今回見学させていただいたのは、toddler community、18ヶ月から36ヶ月までの子どもたちのクラス。見学前にあらかじめ注意事項のたくさん書かれたものが送られてきて、読んでおくように、とのことだった。書かれている内容は詳細にわたっているけれども、要は教室でお仕事をしている子どもたちの集中力を途切れさせないよう、邪魔にならないように、といった内容だった。静かに教室に入り、子どもたちの方から興味を持って挨拶をしてきた場合は返事をしても良いが、自分から声をかけるべからず、とか、退室の際にも挨拶は不要で静かにそっといなくなること、とか。当然、我が子は連れては行けない。その徹底した態度に好感が持てた。

教室に入ったのは午前9時半。クラスは9時からなので、始まって少し経ったところだ。教室の窓は大きくとられ、一面は全部ガラス張り。机も椅子も、トイレの便器も何もかも幼児サイズでかわいらしい。コンセントは大人の肩くらいの高さに設置され、先生たちの使うものはすべて高いところに置かれている。子どもたちは全部で6人、先生は3人いた。メインの先生がひとりと、残りの二人はサポート。

教室に入ると、教室の机などのないスペースでメインの先生を囲んで子どもたちが輪になっていた。先生は本をみせ、これはなあに? そう、ぶたね! ぶたはなんてなくの? そう、ぶうぶう! ね、とやっていた。いろいろな動物が出てきて、歌いながらそれぞれの動物の名前、その鳴き方をやってみせる。

モンテッソーリと言うと、一人一人が自分の仕事に取り組む、というイメージだったので、これを見たときは、あれ? 集団教育? と少しハテナが飛んだのだけれど、そのまま見ていると歌(動物の名前と鳴き方)がおわり、お話ししながら、昨日は〇〇ちゃんはなにをつくったのかしら? そう、これね(と言って提灯のようなものをもってくる)。これはなんていうの? そう、提灯ね。なぜこれをつくったのかしら? そう、もうすぐ春節ですからね。だから昨日いくつも作っていろんなところにぶらさげたのよ。ところで、来年は何の年か知っている? そう、巳年ね! 今日はくつ下でへびのパペットを作るお仕事もあるわよ。それから、へびに色を塗るお仕事も!

そうやって先生が、昨日やったこと、今日新しく追加になったことを一通り話すと、じゃあ皆さん、お仕事を始めてください、と、全体の集まりはお開きになった。

ここから、いろいろと目を見張ることが沢山あった。

まず、全体のがお開きになると、子どもたちは自分の座っていた座布団を、決まった位置に重ねて片付ける。そのあと、それぞれがわらわらと机と棚のあるコーナに来て、ほとんどの子が迷うことなく自分の仕事をみつけ、その道具ののったお盆を両手で運んで机におき、椅子に座って作業を始める。なかにはどの仕事がしたいのかわからなくて、うろうろとしている子もいたけれど、その子には先生がついて、どれをやろうかしら、と一緒に選ぶ。決して「これをしなさい」とは言わない。

子どもたちは自分の作業に集中しているので、教室の中は静かだ。もちろん、話すことを禁じられているわけではないので、必要があれば先生に話しかけることもするし、独り言を言いながら作業をしている子もいる。幼稚園と言えば、わーわーきゃーきゃー、というイメージだったが、それからはほど遠い。

お仕事の内容は、モンテッソーリの本に書いてあるようなものがほとんどで、モンテッソーリ本を何冊か読んでいた私にとっては、おどろくほどのことではなかった(モンテッソーリを知らなかったら、なんと地味なおもちゃ、とか思うかもしれない)。それらに似たようなものは、うちの小さい人にもやらせたことがあり、驚くというよりも、本に書いてある通りの世界がそこにあることにほっとした、という感じだ。

しかし、私のにわかモンテッソーリで適当に教えられている我が子と、モンテッソーリのプロに教えられているこの子たちにはとてつもなく大きな差があった。この子たちは、自分で『終わり』がわかり、ちゃんと物事を『終わらせられる』のだ。これはすごく大きい。

私は物事を始めるのは出来るけれど、終わらせることがとても苦手だ。人生の師たちにもそれをよく指摘された。そして、やはり我が子も、興味をもって物事を始めるのだが、きちんと終わらせる、ということができない。片付けるのはまぁまぁ出来るが、自分で『終わり』を見極めることが出来ない。

ここの子どもたちは、自分の作業に没頭し、それが終わると「終わった!」と言ってその道具をもとの場所に戻し、そして次の作業にうつっていく。大人が部屋を片付け回るという姿は全く見られず、こども自身が片付けまでやる。もちろん、小さい子は動きそのものがたどたどしいので、落としてしまったりすることもあるけれど、それも自分で拾って片付ける。

やっぱり、学校に入れよう、と思った。

先生の教え方も参考になった。モンテッソーリの本に書いてあった通り、まずは大人がやってみせ、それからこどもにやらせる、というのが、まさにその通り実践されていた。

私も本に書いてあるように実践しようと試みているものの、やっている途中に手をだされたら、ついそれを持たせて一緒にやってしまったり、あるいは、終わるまで見てなさい! なんて強い口調で言ってしまったり、そうかと思うと小さい人は集中してくれなくて手順が最後まで終わらなかったり。

そんなのこどもだから当たり前、こどもの割にはできてるよ、なんて自分を慰めていたけれど、プロを目の当たりにして、ああ、やっぱり私のやり方ではダメだったのだ、と実感した。我が子と同じくらいの子が、みんなちゃんと出来ているのだから。

先生はとても穏やかに話す。けれども、こども相手のにゅわーっとした笑顔ではなくむしろ真顔でしゃべる。こどもが手をだしてきたら、手の平をむけて静止し、「まず私がやってみせるので、あなたは見ているだけ。私が終わったらあなたの番よ」と、静かに言って、手順をきちんとやってみせる。一度やってみせたら、はい、といってあとは子どもにやらせる。横から手をだすことはしないでとにかくやらせる。子どもが集中して始めたら、すっと離れていく。

子どもたちは小さな椅子と机に座っているのだけれど、お行儀悪く両足を椅子にあげたりする子もいる。我が子もすぐ机によじ上ってしまって、いつも困っているのだが、ここの先生は「机に足をあげない!」とか「降りなさい!」とか叫ぶことはない。静かに「足は床」というだけ。それで子どもの足は床に着く。よく、「〜しない」という言い方は逆効果だというのを聞く。「象を想像しないでください」といわれたら象を想像しちゃう、という人間の脳みその仕組みがあるらしい。きっとそれと同じで、「乗らない!」といわれたら乗りたくなってしまうんだろう。

教室では、ある男の子が、何かを食べたいようだった。先生はその子にバナナを渡して、皮を剥いて切るのよ、そしたら食べていいわよ、という。男の子は、ひとりで皮を剥いてバナナをきって、フォークにさしてもぐもぐと食べていた。

その男の子の椅子に、他の子がよじ上ってきた。最初、その男の子は、よじ上ってきた子を力づくで押しておろそうとしたのだけれど、それを見つけた先生が「言葉で言いなさい」と言う。誰のことも力づくで動かしてはいけません、言葉でどうしてほしいのか言いなさい、と。するとその子は「どいてください!」といい、言われた子は椅子から降りた。

途中、ママが恋しくて泣き始めた子がいた。まだ新しい子だそうだ。その子が泣き始めると、先生は手を取って椅子からおろし、ティッシュを渡して涙を拭かせた。そしてその子を見て、あなたのママはもうすぐくるからね、と静かに話して聞かせていた。そして落ち着くまで抱っこして、おちついたら手を引いて、ヘビに色でも塗ってみる? とお仕事に戻るように働きかけていた。

子どもがなくと、ついつい大人たちは、おもちゃや何かを適当に(本当に手近にあったものならなんでも)あてがったり、何か別のことを話してごまかしたりしがちだけれど、自分が子どもだったとき、そうやって話をそらされるのは馬鹿にされているみたいで嫌いだったことを思い出した。そんなのでだまされてやるもんか、とも思ったものだ。

私に与えられた見学時間は30分。教室のすみっこで音をたてずにじっと座って、子どもたちや先生たちを観察した。30分間のあいだに、本で読んできたことがそのまま目の前で実践されていることに感動を覚えた。教室はとても静かで、子どもたちは何も強制されることなく、自分の意志で仕事を進めている。

モンテッソーリって、本当にこうだったんだぁ、という思いがわいてきた。以前、別のモンテッソーリ園を見学したが、そこでは子どもたちはそれなりにわーわーきゃーきゃーしていて、自主性を重んじると言う言葉のもとで放し飼いにされているみたいだった。モンテッソーリの本に書いているのは理想論で実際はこんなもんなんだろうか。だとしたらモンテッソーリ園に入れなくても良いかなぁ、とすら思っていた。

今回の学校では、みんながそれぞれ全く違った作業をしているのだけれど、教室が全体として調和がとれているというか、落ち着いた雰囲気にあふれていた。それは決して子どもらしさを否定するものでも、強制された静寂でもなく、子どもが子ども自身のうちからあふれる「やりたい!」という衝動をもとに集中した結果もたらされたもの、という感じだった。

最近、我が子がよく走り回り、要求も増え、私もいっぱいいっぱいになり、ふと忘れがちになっていたけれど、子どもには内から溢れ出る何かをやり遂げたいと言う衝動があるのだ。それを最初に目の当たりにしたのは、つかまり立ちが出来るようになったときだった。寝ても覚めても立つことを考えているのか、夜中にむくっと起きてはつかまり立ちをし、できるとぱあっと満足げな喜びが顔に広がるのだ。

そういう衝動を押さえず、その衝動によって何かを成し遂げようとするのをサポートする環境の一部として、親や教師がいるんだろう。環境を作り上げるのは、私ひとりではとうていできない。

いろいろ環境整備、楽しみになってきた。

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