登園時の絶叫に考える

久しぶりにマテを飲んだら、全く眠れなくて朝になってしまった。マテと言っても、ほとんどマテインフリーのシェルバに、ちょっとだけマテイン入りのシェルバを混ぜた程度。それでこんなに眠れなくなるなんて、私はどんだけカフェイン/マテインに弱くなったんだろう。

眠れぬ夜はいろいろと思いが巡るもので、昨夜はずっと小さい人の学校について考えていた。そのまま朝になり、絶叫する小さい人を学校に置いて帰ってきた。今日がはじめて、本当に先に帰ってきた日(今まではいつも学校のオフィスとかでスタンバイしていた)。

小さい人は普段ほとんど泣かない。本当に泣かない。それがサマースクールが始まってからのこの数日、毎日これでもかというほど泣く。泣いている理由は、学校がいやだからではなく、ままちゃんがいないからだ。さらに今日は、ずっと私のそばにいて、私がちょっと立ち上がろうものなら「ぺったんこ!(座れ)」と命じ、私がそこにいるかどうか逐次チェックを入れる。それがいなったのだ。「ここに座っていてっていったのに、ままちゃんは勝手に帰ってしまった」という怒りもあるだろうと思う。

大人たちは「じきに慣れる」とか「泣けばママに会えると思っているから」という言い方をする。確かになれるかもしれない。でもそれは、納得しているわけではなくて、ままちゃんに放っておかれているという寂しさや怒りを訴え続けても来てくれないんだ、と言う『あきらめ』じゃないのかと思う。諦めた子どもは寂しげだ。そういえば、小さい人のクラスには寂しげな子がちらほらいた。そう思うと、今この時期に、寂しい思いをさせ、傷つけても、学校に入れる意味ってあるんだろうか、という疑問がわいてくる。2歳の子が、ママに会いたいと泣くことがわるいことなわけがない。それを『あきらめ』るまで傷つけて良いのだろうか。

アルゼンチンにいた頃は、1歳に満たないころから保育園に入れられる子が多かった。タイだってみんな一歳くらいで入れてしまうし、日本だって育児休暇はそれくらいまでだ。だから、そのくらいから保育園に行く子はたくさんいるし、そういう子がみんな寂しげだとは思わない。人それぞれ、としか言いようがない。

けれども、こうして、絶叫して「ままちゃん! 一緒にいて!」と全身全霊で訴えているのに、先生たちに押さえつけられ、ままちゃんは足早に立ち去り、傷つかないわけがない。大人だって同じ状況になったら傷つくに決まっている。そして諦めるけれど、傷はうまらない。

大きくなってから大人の事情は「理解」してくれるだろうとおもう。でも、理解したところで、子どもの頃の傷は埋まるわけではないし、仮に埋まるとしてもその「理解」が訪れる瞬間までは傷はついたままだ。

学校に入れようと思ったのは、早い段階からモンテッソーリ的なことをしてほしかったからだ。けれどもそれに伴ってこんなにストレスを与えてしまうのならば、デメリットの方が大きい気もする。似非モンテならお家でも出来る。

しかし、これは誰もが通る道。そして多くの人は真っ当に生きている。心配しすぎてストレスを極端に避けるように育てるのもまた弊害がありそうな気もする。

悶々としているうちにもう1時。もうすぐ小さい人が帰ってくる。どんな顔で帰ってくるのかな。私は笑顔で迎えよう!

マテでも飲んでリフレッシュ。

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