こどもを通してこどもの頃の自分を見る

※はてなブログから引っ越してきました。

ものすごい久しぶりにはてなに戻ってきたら、はてなブログというのが出来ていた。はてなダイアリーとはてなブログのにたようなサービスが二つならんでいるが、とりあえず新しい方を使ってみることにした。

最近、娘を学校に送っていく道中、二人で大声で「きしゃきしゃぽっぽぽっぽー! あっ! ひこうきだー! ぶーん! いってらっしゃーい!」なんて叫びながら、いろんなことが浮かんでくる。

浮かんでくることの多くは、こどもだった頃の自分の姿だ。そして、こんなとき私は親からどういうふうに相手をしてもらったんだろう、とその都度思い、そしてたいてい、ああ、私ってかわいそうなこどもだったんだなぁ、と感じてしまう。

こどもの頃、よく周りの大人に『かわいそう』と言われた。それは幼い頃に父と死別したから、ということに対して言っていたのだろうけれど、私がそれがとてもとても嫌で仕方がなかった。かわいそう、という同情は、とてもひどい侮辱だと感じていた。かわいそうってなに? 私はかわいそうなんかじゃない、かわいそうなのは若くして死んでしまった父だ、そう思っていた。

けれども今、娘を通してみるこどもの頃の自分は、父親を亡くした、というその一点でかわいそうなのではない。残された母親がどういう風に自分を扱ってきたのか、どういうことを言われてきたのか、どんな選択肢を与えられてきたのか、どんな家族だったのか、そういうことをいちいち考えさせられるからだ。

若い頃とてもよくしてくれた人に言われた言葉。

「お前は生まれはいいが育ちが悪い」

今、とても胸に突き刺さる。本当にその通りだ。育てられていなかったんだ、って今になってわかる。自分は勝手に育ってきたんだ。きちんとガイドしてくれる大人が周りにいなかった。

娘はモンテッソーリという教育方法で育てているが、そこでは大人は環境の一部であり、こどもを導くガイドであるという考え方だ。完成品を与えたり、知識を与えるのではなく、自分で知識や能力を吸い取っていく為の方法や方向をガイドするのが大人の役目。

私にはガイドもメンターもいなかった。本ばかり読んで、周りの大人は誰一人信用していなかった。誰かにガイドしてもらおうと言う素直な心もなかった。

アダルトチルドレンの救済方法に、インナーチャイルドを癒すというのがあるらしいが、今私が感じている、こども時代の自分というのがいわゆるインナーチャイルドなんだろうか。

だったら癒してやらねばと思う。そうしないといつか、娘は私の中のかわいそうな子に気づく。

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