愛別離苦再び

ちょうど一年前、ちいさい人ははじめて母の元を離れ、学校という他人がたくさんうようよいる世界に飛び込まされた。最初は泣いて泣いて、まるでこの世の終わりのように泣いた。母がまた迎えにくる、という未来が想像できないようだった。今離れたらもう二度と会えない、そんな風に泣いた。

時がたち、毎日の学校を楽しみにするようになり、そうして、10か月が過ぎた。

夏休みだ。

夏休み中、私たちはいろんな場所へ行った。友達に会いに。電車に乗り、飛行機に乗り、バスに乗り、車を運転し、夜行列車でも眠った。家から遠く離れて、ときどき自分のベッドが恋しくなりながらも、私たちはいつもぴったりとくっついて、2か月を過ごした。

そして、また学校が始まった。

そして、また、あの別れの苦しみがやってきた。

今回は、母があとで迎えにくるということは理解している様子だ。けれども泣く。なぜなら、あとから迎えにくるとかはどうでも良く、いまここでぴったりくっついていないのが、寂しいのだ。1年前に比べて言葉が随分発達し、言葉できちんと伝えられるからなおさら、辛いのが伝わってくる。

「ままちゃんといっしょにいたいの」
「ままちゃんとあそんでいたいの」
「いつでもままちゃんがいいの」
「おうちにいたいの、ままちゃんといっしょに」

うるうるした目でわたしを見つめ、ぺったりと張り付いてはなれない。

こんなに全身全霊でわたしに対する愛情を表現してくれる人は、他にはいない。2か月くっついていたのだから、大人のわたしだって、その存在がなくなるととても寂しい。

「ままちゃんもさみしいですよ」
「ままちゃんはあなたが学校に言っている間もずっと、あなたのことを考えていますよ」「早く会いたいなぁ、今なにしているかなぁ、泣いていないかしら、って考えているんですよ」
「ままちゃんと一緒にいたいきもち、すごーくよくわかりますよ」

そういって、なだめすかして学校へ送り込みながら、なぜ今こうして学校へ送るんだっけ? 今日一日、一緒にくっついていもいいんじゃないの? 学校がすべてじゃないでしょう? と疑問がわいてきてしまう。

親は自分のすることに自信を持つべきであり、親がぶれると子供に不安が伝わる、という。そうだと思う、でも、ときどきぶれてしまう。

あと2時間弱でちいさい人をお迎えにいく。もうすぐ会える、と思うととても嬉しい。会ったときには、会えて嬉しいというのをきちんと伝えようと思う。

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