モンテッソーリ

モンテッソーリ3年半、後悔していない

我が子を2歳ちょっと前からモンテッソーリスクールに入れている。私がモンテッソーリが好きだから、というだけの理由で。

モンテってどうなの? ってよく聞かれるのだけど、いいとか悪いとかは比べられない、他を知らないし。でも私はすごく好きだし、今までモンテに入れておいたことは後悔していない。

なんでそんなにモンテが好きなのか、というのを説明しようとすると結構支離滅裂になってうまく伝わらないことが多いので、ちょっと書いておこうと思う。

モンテを気に入っている理由

自発性と自律性を重視する

モンテでは、自分が何をやりたいのかを知り、やると決めて、実際に行動に移し、納得いくまで繰り返し、自分で区切りをつけて終わらせる、ということを毎日繰り返す。先生が「さあみなさんこれやりましょう!」「さーおしまいです!」ではない。もちろん自分で選べないで長いことぶらぶらしている場合には、先生が何かを選ぶように促したりはするし、手をつけていない分野のお仕事があれば、それもうまい具合に勧めたりはする。

自分で選んで、決めて、行動に移す(ここ重要)こと。そして、どこまでやったら終わりかを自分で判断し終わらせられること(ここも重要)。これって人間としてとても大切なスキルだと思う。これがうまくできない大人だってたくさんいるし、私自身、毎日の小さな決断の繰り返しに疲れはてて「誰か全部決めてくれ」って思ってしまうこともある。

昔デザイン事務所で働いていたころ、社長(本業画家)が、「どこで筆を置くかが重要だ」って言っていた。ほんとそう。何事も、終わりを見極めて、自分で終わらせるって、すごく難しい。なにかを終わりにするのって、始めるより難しい。

環境が子供をガイドしている

ユーザビリティの大御所でドナルド・ノーマンという人がいるのだけれど、そのひとが「アフォーダンス」ということを言っている。簡単に言うと、モノはその形によって人の行動を引き出している、ということ。例えば、引っ張って開けるドアのノブは「ここをひっぱってね」という形をしている(たまに押すドアに引き手がついていると人は戸惑う)。

モンテッソーリは教具も、教室にいる先生も、そういう感じのガイド役だ。先生が教える、というよりも、子供達が目的を達するためにガイドしている、という感じ。先生は先生ではなくて、環境の一部、という扱い。

私が、なぜこれが好きなのかというと、子供は「自分で発見する」ことができるという点だ。こうこうこうだからこうだよ、って教えられるのではなくて、こどもはアクティビティを通して、自分でいろんなことを発見する。先生は、発見するための手順をガイドしてやったりするだけだ。

個人を尊重するいろんな個人の集まった社会

モンテッソーリは6歳までは個人でやるアクティビティが多い。5、6歳くらいになると、2、3人でやるゲーム的なものもあるけれど、基本は個人で仕事をする。全員で何かをするのは1日に15分程度のグループタイムだけで、あとは基本一人で黙々と作業をする。

こどもたちは、自分のやりたいことを思う存分やることができる。誰かが選んだアクティビティを、誰かが決めたタイムテーブルでやるのではない。自発性と自律性を尊重する、ということは、その人個人を尊重することだ。つまり、子供は自分で自分の責任を取らなくてはいけない。誰も代わりに決めてくれない、自分で決めなくてはいけない。

これはとてもとても大切なスキルだと思う。誰かに決めてもらうのに慣れてしまったら、自分の人生に責任を持たなくなる。

そして、自分のことに責任を持てる個人が集まっている社会では、他者を当たり前に尊重する。個人の主張がぶつかり合うのではない。モンテのクラスでは、教具は基本的にワンセットしかない。つまり、同じお仕事をやりたい子が複数いたら、順番を待つとか、ゆずり合うとかして融通しなくてはいけない。同じ教具を用意して与えてやり、コンフリクトを解消する、というのではない。もし、眠たければ布団を敷いて眠っていてもいい。でも、他の人の邪魔にならない場所で、だ。それに、モンテでは制服はなことが多いがドレスコードがある。周りの人の気を散らすような格好で学校へ行ってはいけない。

また、モンテは3歳から6歳まで一つのクラスにいる。学校にもよるだろうけれど、我が子の通う学校では、発達障害があったりする子も普通に同じクラスにいる。みんな違っているのが当たり前で、大きな子は小さい子に教えてやり、小さい子は上の子を真似する。中には周りと馴染めない自閉症の子がいたりする。でもその子はそういう子だ、と受け入れて、みんなと同じであれと強制することもない。

モンテは個人を尊重するし、基本的に何をしてもいいのだけれど、フリープレイの放任主義型教育とはまったく違う。ルールでガチガチに固めているわけではないが、子供達は社会の一員として、他者を尊重した行動をとることが求められる。モンテは社会性が身につかないとか協調性がないとか言われるが、違う。どっちもちゃんとある。ただ、みんなと同じ行動をみんなと同じだという理由だけでとることにまったく慣れていないだけだ。

所作がとても丁寧できちんとしている

これは躾のレベルの話で、本来は学校に頼るべきものではないのかもしれないけれど、モンテッソーリのお仕事をする所作ってとても丁寧で美しい。もののつまみ方とか、置き方とか、手の動かし方とか、そういうのがとても美しくて丁寧だ。私はすごく大雑把な人なので、娘の丁寧な所作を見て反省させられることしきりである。とはいえ、娘もかなり大雑把に乱暴にやることもあり、やはり見られているんだなあ、と反省する。

自分の身の回りのことを練習する

これもまあ本来は躾のレベルなのかもしれないけれど、モンテッソーリは「日常生活の練習」というアクティビティが低年齢のうちはかなりの部分を占める。掃除、洗濯、料理(切るとか洗うとかちぎるとか)、それからお花を活けたり、植物の世話をしたり、ボタンの掛け方、リボンの結び方、雑巾の絞り方、などなど、そういう練習をひたすらやる。

家にいると娘は甘えて「ままやってぇー」ということも多いけれど、本当はほとんどだいたい自分でできる。学校のおかげだ。

学力はどうなの?

私がモンテッソーリを気にっている理由を並べてみて気づいたのだけれど、私はアカデミックな部分は今の年齢ではそれほど気にしていないらしい。自分で自分の世話ができ、自分で決断し、行動に移し、自分の人生に責任を持てるようになってほしい、と思っているんだろうな、多分。

モンテはアカデミックでは劣るかというと、調査結果からすると決して劣ってはいないらしい。ただ、別にモンテだから成績が良い、というわけでもない(他の教育方法と同レベルってこと)。

今娘は5歳だが、学校で何をやっているのか聞いてみると、算数では4桁の掛け算とか分数とかやっている。でも、モンテッソーリなので紙の上で数字でやるのではなく、教具を使って数や量を感じている、というやつ。

文字は筆記体をだいたい全部覚えたところで、普通の文字はちょっとした単語なら読め、短い本なら読める(小さい子のクラスに行って読んであげたらしい)。同い年の普通の学校へ行っている子に比べると、まだ全然読めないし、ちゃんとした単語もかけない。モンテでは間違いを直してやらないので(子供が自分で発見する機会を奪わないため)、子供が自分で気付くまでは間違ったスペルとか鏡文字でもそのままやらせている、というのもある。

そんなわけで、たぶん一般的な学力テスト的なものでは、この年齢ではモンテの方が劣ると思う。私は今の所気にしていない。

まとめ

モンテは、生き方の基礎訓練、という感じなんではないかと思う。低年齢のうちには、モータースキルや様々な身体感覚(聴覚、視覚、嗅覚、味覚、触覚を鍛える教具もある)を文字通り鍛え、それから自分のことは自分でできるようになり、そして、自分というものをしっかり持った上で他者と関わっていく、ということを毎日練習している。

毎日、私が仕事から帰ってくると、娘は自分の机に向かって何か「お仕事」をしている。ぬりえだったり、なんかのワークブックだったり、文字を書いていたり、様々だ。私は「勉強しなさい」と言ったことは今の所ない。まあ、5歳だし、というのもあるけれど、できれば今後もずっと言わないで過ごしたい。自発と自律。

娘をモンテに入れて3年半。後悔していない。私も行きたかった。

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大人になったモンテっ子サンプル3人

大人になったモンテっ子で、世界中で超有名なイノベーターとかじゃない普通の人のサンプルってないだろうか、って思ってたんだけど、聞いてみるとお友達にいたので、ちょっと書いてみる。

ビーガン君(アメリカ出身、38歳)

お友達のビーガン君がモンテ育ちだったということが判明。3歳から6歳までモンテに通ったが「I hated it!」と吐き捨てるくらい学校が嫌いだったらしい。ブロック積み上げて崩してを死ぬほど繰り返すだけとか、それ終わったらこんどは、お皿とか靴とか洗うだけとかもう退屈すぎる、とかいう。

モンテに対する経験者のネガティブ発言は聞いたことがなかったのですごく参考になった。話を聞いているとモンテの仕組みが問題だったというより、担任の先生との相性が悪かったようにも見える。

さて、そのビーガン君は今どうなっているかと言うと、人に雇われることを拒否して自分でビジネスをしながら世界を旅している。操れる言語は10を超える。やっている仕事は、オンラインでタイ語のレッスンを売っている。自分がもはやネイティブなみにタイ語を操れるので、自分でコースを作ってオンラインで売っているのだ。

人にものを教えるのが上手い。人に従うのは嫌い。根本をみる目があるので、そこから疑問を感じたら突っ込むか触れない。自分を信じている。

教えるのに通じるけれど、言語にしても文化にしても、その構造を独自の視点で見極め、わかりやすい例と関連づけて説明するというのがとても上手い。今までいろいろしっくりこなかったタイ語の構造とかが彼の説明を聞いて、ほぉー! なるほどぉー! となった。これはタイ人じゃないからできることだと思う。

同じ要領でたくさんの人にサルサを教えたり、言語の勉強のしかたを教えたり、そこだ、というポイントをついた説明が素晴らしい。

コシネロさん(イタリア人、60歳)

よくお食事にご招待してくれる娘の友達のパパさん。生まれはたぶんイタリアだが、子供の頃から南アフリカとかイギリスとかあとはどこだかいろんな国で暮らしてきたが、モンテ育ち。何年モンテやったのかは聞いていないけど。

自分を信じている。そして懐がでかい(年齢にもよるものか)。エンターテイナーで話が面白い。英語とイタリア語はネイティブ。ほかにもしゃべれるのかどうかは知らない。

機械いじりとかが好きで、自分でパーツを買い集めてスピーカーとかアンプとかを創り上げる。料理も同じですごく凝っているし、いろんな道具、食材があってそれをきちんと理解して使いこなしている。凝り性という言い方もできるのかな? 完璧主義みたいな神経質さは感じられないけれど、好きなことはきちんと手を抜かないでやる、という感じ。

創造性が豊かで社交的でとても幸せそうな人。

リングアさん(アメリカ人、40歳くらい?)

モンテッソーリの6-12までの資格を持つリングアさんは。もちろん彼女の子供達もモンテで育てているし、本人もモンテ育ち。

この人も多言語を流暢に操る。それも3つとか4つとか言うレベルではなく両手で数えるくらい。

自分がどうしたいのかがよくわかっていて周りに流されない感じの人。声が大きい(アメリカ人だからか)。説明が上手い。地味なことをずーっとやるのができる。そして地味で退屈そうなこと(つまりモンテのお仕事的なこと)を子供に教える(効率化を求める大人からみると、ということ)。1つのアクティビティに長時間集中する。

今のところ、身近でモンテ育ちだったということが判明したのはこの3人。3人に共通するのは、自分を信じている、ってこと。誰かや何かに依存しないで生きている。

うち二人は、ものすごく流暢にたくさんの言語を話す。それも、多言語環境で生まれ育ったわけではなくて、自分で言語の勉強をすることが面白くてどんどん身につけていった、というパターン。それでそこまでしゃべれるのか、っていうレベルでしゃべれる。

3人とも「自分が興味を持ったことはとことんやる」っていうモンテの典型例みたいにも見える。

ビーガン君はモンテをぼろくそに言っていたけれど、ものすごいモンテ育ちっぽい傾向があるなぁと思う。ほかにもモンテ育ちがいたらまた書いてみよう。

モンテっ子のその後を書いた本

モンテッソーリと言うと、超大物イノベーターたちが受けていた教育だ、といって注目されている。けれども、モンテッソーリで育った子がみんながみんなものすごい有名人になるわけではなく、そのへんの普通の人にもモンテっ子はいるはず。

そんな普通のモンテっ子のその後を追った本があったので読んでみた。Kindle本もあるから海外在住には助かる。

モンテッソーリ教育を受けた子どもたち 幼児の経験と脳
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著者は日本におけるモンテッソーリの第一人者、相良敦子氏。調査対象は日本のモンテっ子なので、基本的にモンテ教育は3歳から6歳の三年間しかうけていない。

この著者のモンテ本は何冊か読んで、とても参考にさせていただいている。どれも、モンテ推進者の書いた本ということで、批判的な記述はない。

この本には、40年もモンテッソーリに関わってきた相良氏だからできる調査結果が並んでいる。調査結果と言っても数値でデータ化されているわけではなくて、モンテで育った本人やその親からの聞き取り調査をもとに、モンテで育った人はこんな傾向がある、ということが書かれている。登場する人は、超大物イノベーターではなくて普通の人。なかには一時期引きこもりになった人もいる。でも、それぞれの生き方がモンテらしい。

詳しい内容は本書を読んでいただければわかるけれど、モンテで育った人は、自分を信じていて、地に足がついていて、そして他人や社会を基本的によいものとして捉えて、フェアな判断を下す、という感じに見える。印象としては、穏やかで幸せな人生を生きているのではないか、と。

モンテ信者としては、わかっていたけれど、あらためて調査結果を読んで安心したわ、って言う感じの本だった。

別にモンテ批判をしたいわけではないけれど、モンテ信者として偏った目線ではなくフェアな目線でみたものを知りたい。たとえば、モンテッソーリで育つと優位に自殺率が低いのかどうかとか、さ。

我が子は20か月からモンテで、今4歳ちょっと。6歳までモンテにするか、その後もモンテにするか悩み中。

モンテッソーリ2年ちょい、モンテだとこうなる、について感じたこと

私の趣味で娘をモンテッソーリ校に入れて2年です。モンテッソーリスクールというだけあって、AMI資格保持者しか雇わず、一応ピュアモンテを目指している学校ではあります。

モンテについていろんな意見があるのですが、日本語で出てくる情報にあることが必ずしもそうでもないなー、と感じることがけっこうあります。特にモンテッソーリ関連のことって、私もですがモンテ信者みたいな感じで絶賛された情報や、あるいはモンテを実際に知らない人が勝手に批判しているものが多いのです。

あくまでもうちの子とその周りのモンテっ子を見ての感想ですが、モンテ体験の記録として書いておきます。

「モンテッソーリの子は協調性がない」のか?

うちの子、ものすごい協調性があります。うちの子に限らず、うちの子の友達のほとんどに、協調性があります。社会性もあります。みんなで何かをするときに、問題があったりすると子供同士で解決します。

ただし、もちろん協調性のない子も存在します。しかし、協調性バンザイ、誰とでもとにかく仲良くすべし、というようなプレッシャーはないので、協調性がない子はないまんま、本人が落ち着くレベルで他人と交流します。

これは、モンテかどうかより、うちの子含めその周りの子はみんなTCKだというのが大きいかもしれません。

「モンテッソーリの子は集団行動ができない」のか?

できます。集団から外れて居る人が居ると、子供達自身が声をかけたりもします。ただ、明らかにその集団に入る気もなく、それで平気そうにしている人などは、そのまま放っておきますし、そういう人は我が道を行きます。モンテだから、というより、本来集団に入れない人を無理矢理入れたりしない、結果、集団から外れている人が目につく、ということの気もします。

「モンテッソーリの子は集中力がある」のか?

うーん、これは私は、ある、と思っていたのですが、怪しいと思ってきました。何度かモンテじゃない子も居る場で、モンテっ子たちより非モンテっ子のほうが長時間、まわりからの刺激をものともせずに絵を描いたり作業をしていたりしたことを目撃しているので、もしかしたらむしろ、モンテはうまくやらないと注意力散漫になるんじゃないか、という疑いを持っています。

「モンテッソーリの子は子供らしくない」のか?

ものすごい子供らしいです。何を持って子供らしいとするかは難しいですが、たとえば外遊びとかになればもうずーっと笑い転げながら走り回っています。これを子供らしいと言わずしてなんと言う、って感じです。

こどもたちはのびのび暮らしています。

「モンテッソーリの子は学業も優秀」なのか?

これも若干疑問があります。もちろん学校側は優秀であることを宣伝したがるものですが、モンテ(というかこの学校)に見切りをつけてほかの学校に転校していった友達から聞くと、ほかの学校の子供達の方が読み書きが進んでいる、という話をきくことが度重なりました。モンテの目指すところは、いわゆる数字ではかれる頭のよさ、ではないので、4歳5歳の段階で文字をたくさん書けるか否かで判断すると負けるのかもしれません。

将来、生きていく上ではプラスになるだろう、と長い目で見ることにします。

「モンテにあう子あわない子がいる」のか?

正直わかりません。ただ、モンテは、従来型教育よりずっと対応範囲は広いのではないかと思います。実際娘の通う学校では、ダウン症や自閉症の子が居ますが、それぞれがそれぞれのペースで適応してやっているように見えます。もちろん、特別な補助が必要な場合のサポート人員の確保、というのはありますが、それはモンテの問題ではなく運営の問題。

モンテにあわない子ってどんな子だろう? ということを考えると、自発性のない子かな? と思うのですが、そもそも、その自発性を育てるのがモンテなので、はじめる段階ではなくてもいいのじゃないかな、と思います。

学校次第、先生次第、というところ。

日本の「モンテを導入している」半モンテ校に1か月入れたことがありますが、その時期に一気にともてお行儀が良くなり、物わかりもよくなり、日本から帰ってきたところ現地校の先生達に「すごい変わった!」と言われました。

つまり、日本で実践されているモンテって、すごくお行儀よくなっちゃうモンテなんじゃないかな? というかそもそも日本という国がお行儀がよい、ということな気もします。

そして今行っている現地校が、だんだんユルくなってきているというのもあります。当初はいろいろちゃんとしていたのに、どんどんユルくなり、そのくせ学費はうなぎ上りで、古くから居る家族は見切りを付けてほかの学校へ移ってしまいました。そして今現在、私も迷っているのです。モンテは好きだけど…って。

3年続けるべし、との助言

娘のお友達で最近6歳で卒業していった男の子のママと話しました。彼女も、モンテ1、2年目(3、4歳)のときは、うーん、どうなんだろう、と思っていた時期が長かったそうです。でも、最後の1年にぐっと伸びて、6歳までモンテに入れておいてよかった、と言っていました。もう少し、続けた方がいいよ、とのアドバイス(ただし、学校がその子にやってくれていたレベルのことを今後もやり続けてくれれば、と注付き)。

日本語で書かれたモンテ本はモンテ信者によるモンテ大絶賛本が主で、その内容も、具体的なデータや根拠を示さずに漠然と「経験から」書かれているものが多くて、モンテは大好きだけれど、なんだかときどきうさんくさく見えてしまいます。

また、モンテで育つとこんな子になる、というのはよく見聞きしますが、こんな大人になる、というのはなかなか見えてきません。というのも、その場合の例としてだされる人が超大物すぎるので実感がわかないのです。モンテ育ちがみんな超大物になっていたら世界は大物だらけですが、たぶん、普通の大人になっているモンテ育ちもたくさん居るはずです。そういうサンプルを知りたい。

ご存知でしたら教えてください。

こんなモンテ批判本を見つけましたが、1923年初版だそうです。もうちょっと最近の情報も欲しいな。

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モンテッソーリの三項式キューブをいじりはじめた3歳児

今日、我が家のちいさい人が「三項式キューブ」をはじめたよ、と担任の先生からメールが届いた。

三項式キューブとはその名のとおり、(a+b+c)の3乗を感覚的に学べる教具。こんなのもうやってるのか、うちの3歳児。

まてよ、三項式やってるっていうことは、もう二項式はおわっているってこと? (a+b)の3乗とかもうやったわけ? とびっくりして先生に聞いてみたら、もうやりましたよ、とお返事が来た。

知らなかった… orz

いつの間にそんなに数学教育を受けていたのだ、我が子よ。

モンテッソーリの数学教育は、紙の上で数字を教えるのではなく、手で触れる感覚教具で数学の概念を吸収していく。子どもに「これは数学の概念ですよー」とは教えない。この教具はこうやって使うんですよ、と教える。それを子どもが繰り返し繰り返し作業しマスターすることによって、そこにある概念を吸収していく、らしい。

いいなぁ、わたしもモンテッソーリの学校で赤ちゃんからやり直したい。

モンテッソーリの赤い棒、ひとりでできた!

今日、学校のお迎えに行ったときに担任の先生が話してくれた。

同じクラスで今日、赤と青の棒のおしごとをはじめる子がいた。その子がそれを教わっているのを見て我がちいさい人が、わたしもこれやりたい、と先生にいったらしい。

この「赤と青の棒」の前段階として「赤い棒」がある。

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これは、数を量として捉える訓練。1と10では10倍長さが違う。これを長い順に並べたり、1+9、2+8のようにくみあわせて10を作ったりしながら、感覚的に数を吸収していく。

わがやのちいさい人はまだどちらも教わっていない。でも、先生は「これをやりたい」という人に単に「あなたにはまだはやい」なんていう言い方はしない。だから先生は「OK、でももしこの赤と青の棒をやりたいのなら、まずは赤い棒をひとりでできるようにならないとね。私のヘルプなしで、全部ひとりでできるようになったら、赤と青の棒をやりましょう」と言ったのだそう。

それに対して我が子は、わかった、と。そういってひとりでお仕事用のマットを敷いて、赤い棒をひとつずつ長いほうから並べはじめた。教具棚から一本ずつもってくるので、順番に並べればちゃんと長い順になる。並べ終わると我が子は先生のほうを向いて「ミス○○! できました!」と満面の笑み。

先生「OK。じゃぁ、今からこれをバラバラにします。ひとりで、先生のヘルプなしでできるかな?」

我が子、ひとりでやったのだそう。全部並べ終わるとまた満面の笑みで「ミス○○! できましたーっ!」

先生曰く「明日は約束を守って赤と青の棒のお仕事を教えます。まだ赤い棒も教えたことがないのにいつの間にかできるようになってました」だそうだ。

モンテッソーリのクラスは3歳から6歳までが同じクラスで同じ教具でお仕事をしている。3歳って言ったらまだ赤ちゃんぽさが残る子もいるし、6歳と言ったらもうずいぶん体も大きくて、ティーンまでもうすぐっていうかんじの子もいる。他の人のお仕事を見ながらいつの間にか覚えてしまったり、教え合ったり、ちいさい人たちの社会がそこにある。

私と一緒にいるとまだまだ甘えん坊のちいさい人(現在3歳1か月)が、学校ではひとりで赤い棒を完成させてきちんとお行儀よく座って、先生に丁寧な話し方で教えてくれるように頼み、他の子の面倒をみ、動物や植物の世話をしているのかとおもうと感無量だ。

わたしもまたちいさい人になってあの学校へ行きたい。

代名詞を多用しない、子供の間違いを正さない

モンテッソーリの言語教育ワークショップ二日目。

今日は実際の教具のデモンストレーションも含めて、2時間にもわたる濃い内容だった。その中で特に印象に残ったのは2つ。

  1. 代名詞を多用しない
  2. 間違いを正さない

代名詞を多用しない

あれ、これ、それ、そっち、あっち… いかに自分がこれらを多用しているのかに気づかされた。何かを説明するときに「これをこーやって、ここにとおして、それからこっちのをあっちにやって、こうやるの」みたいな説明をしていることがあるが、これって全く説明になっていない。

じゃぁどうやって説明するのかと言うと、必要なものの名前をすべて提示し、それらをつかって説明する。

これって何度も本で読んでいたことなのに、日常生活ではいつも代名詞に頼っている自分がいる。おかげで我が子も「あれあれ!」ばかりである。反省。

例えばチャックの閉め方。チャックって、チャックの持つほう、差し込む小さなチップのついたほう、チャックの歯のかみ合う部分、などがあるのだけれど、先生はそれぞれのパーツに対しきちんと名前を言って提示して説明していた。日本語で私名前知らない… orz

間違いを正さない

これもモンテッソーリ的には基本中の基本なのだけれど、私が全くできていないこと。目の前で子供が間違ったときに、たださないでいるってすごい忍耐力がいる。

今日のワークショップでは、Movable Alphabetのデモンストレーションをしてくれた。

ムーバブルアルファベットは、木でできたアルファベット。こんなかんじの。

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学校のものは基本ブルーで母音だけ赤になっていた。この教具で、既にアルファベットの音を知っている子供が初めて、音と文字をマッチさせて言葉を作る。ちなみに、モンテッソーリではアルファベットを「エービーシー」とは教えない。だって、Aって「エー」っていうおとではないし。Bだって「ビー」ではない。だから子供には最初に音を教える。

今日は保護者のひとりが子供役になって先生がデモンストレーションしてくれた。

  • 先生:あなたの好きな動物はなに?
  • 子役:cat
  • 先生:じゃあ、catってつくってみて。c-a-t(日本語で書くと「くーあーとぅっ」みたいに文字1つ1つの音を明確に言う)。
  • 子役:くー、くー、くーっ、これ。あー、あー、これ。とぅー、とぅー、これっ! cat!

こんなかんじだ。ただ、cとkは音としては同じなので、子供によってはcatをkatと作るかもしれない。でもそれを先生はたださない。ここでほかの保護者から質問が出た。ここでたださなかったら、子供は間違ったまま覚えてしまうのではないか? 子供はいつどうやって正しいスペルを知るのか?

先生曰く様々な経験から、子供自身が自ら気づくのだそうだ。例えば数週間後に本を読んでいたらCATというのが出てきた。そのとき子供は数週間前のMovable alphabetでつくったKATはCATが正しいんだ、と気づく。その場で大人がこれは違う、と言ってしまうのではなく、子供自身がエラーを見つける余地を残しておく。そして自分で理解したときには、とても大きな満足感をえられる。

深い。

親ががんばって自分を抑えてあれこれ手や口を出さないというのがとっても重要なんだなぁ、と、あらためて。明日から、間違いを正さない、代名詞を多用しない、を気をつけよう。

モンテ的読み聞かせ – 文字、言葉に対するセンス

我が子の通うモンテッソーリスクールでは、ときどき保護者向けのワークショップをやってくれる。前セメスターでは数学がテーマだったが、今回は言語がテーマの全6回ほどのワークショップだ。

先週初回のワークショップに参加した。0歳から3歳までの子供に、文字、言葉、言語にふれる機会を作る方法についてだった。

先生の話した内容はだいたいこの本とかぶる。

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この本の内容にあることがほとんどだったけれど、先生が話してくれたことで面白かったのが、本の読み方。

私もいつも、本を読むときは表紙からはじめて、著者の名前、出版社を読み、本を開いて、もしあれば作者紹介なども読み、そうしてから本編に入る。しかし終わりはけっこうあっけなくて、さくっと奥付(出版社や何刷かなどが記載されている部分)を読んで終わっていた。

ところがこの学校の先生はなんと、ISBNコードも読むらしい。そうなるともちろんバーコードも。その結果隅々まで情報を読む習慣ができる。それから、それらが何のための物かという知識も増える。

こりゃやってみないと、と思い早速その日の夜にISNBコードもバーコードも読もうとしたが、我が娘はISBNコードを読み始めると退屈になって、次の本を持ってきてこっち読めという。なかなか思うようにいかないのがちいさい人との暮らしってものだ。

それから面白かったのは、先生が自分で作ったお話を本なしで語ってきかせるのもとても良いという。先生が1つのお話を披露してくれたが、彼女の演技力に圧倒されてしまった。わたしはそんなのできるかしら…。

うちのちいさい人は本が好きだが、最近は本を読む暇もなく寝落ちしてしまうので、本を読む時間がぐっと減ってしまった。そして、日本語の印刷物が本以外になかなかなく、街中やスーパーなど、日本ならたくさんあるような日本語にふれる機会が少ない。最近学校ではアルファベットをはじめたそうで、これは日本語もなんとかしないとまずいと焦っているところである。

ピンクタワーと喜びの舞

泣きながら通いはじめた、夏休み後のサマースクール。今までとの違いは、ちいさい人は「こどもの家」に上がったことだ。モンテッソーリは縦割りで、ちいさい人たちの学校は、1歳半から3歳までのToddler community、3歳から6歳までのChildren’s house「こどもの家」とに別れている。我が家のちいさい人はこのサマースクールから「こどもの家」の住人となった。

3歳までのクラスは、日常生活の練習や感覚教育が主となっていたのだが、この3歳からのクラスでは、数学、科学、植物学などの基礎となるような「お仕事」が増える。教具もいろいろと面白そうだ。

そんな「こどもの家」の住人となった我が子を観察すべく、学校へ行ってきた。ちいさい人たちの学校には少し前からCCTVが導入され、オフィスで子供達の邪魔をすることなく様子を観察することができる。

学校のオフィスで大きな画面の前に座ると、我がちいさい人はちょうど「ピンクタワー」のやり方を先生にみせてもらっているところだった。

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ピンクタワーとはモンテッソーリの教具で、1辺が1センチから10センチまで、1センチ刻みで大きくなっていく10個の立方体を重ねるものだ。これを大きいのから順に奇麗に積み上げるお仕事。モンテッソーリではまず先生がやり方をみせ、次に子供にやらせる。子供が間違っても直さない、そのままやらせる。モンテの教具の設計には、子供みずからが間違いに気づくような工夫がなされており、何度も繰り返すうち自分で間違いに気づき、ひとりで完成させられるようになる。

そんなわけで、我がちいさい人は、今日ピンクタワーを教えてもらった。

監視カメラの映像なので声は聞こえないが、我がちいさい人のコミカルな動きでだいたい想像がつく。先生の指示に従って、ラグをころころころーっと広げる。先生に言われて、ピンクタワーの立方体をひとつひとつとってきてラグの上におく。先生のデモンストレーションがおわり自分の番になって自分で積み始める。積む、というのはもう既にできるが、1センチの違いを間違わずに大きい方から順に積むのはまだできないらしい。もしかしたら、大きい方から順に積むと先生のやったようにできる、ということに気づいていないのかもしれない。でもそんなことは気にしない。

いびつに積上ったピンクタワーを見て満足げなちいさい人。タワーの周りをクルクルクルクルまわりはじめた。何週も、何週も。積み上げられた喜びの舞。くるくるくるくる。くるくるまわる人を先生もアシスタントの人も誰も止めない、喜びの舞を踊らせておく。

やがてちいさい人は喜びの舞を終え、ピンクタワーを片付け始める。片付けるときも1つずつもっていく。そしてまたタワーをくみ上げる。またしてもいびつだが、終わった満足感が画面からにじみ出る。ラグをくるくるくるーっと巻いて片付ける。

その後、こどもの家のいろんなお仕事をやる我が子を1時間ほど観察。朝のあの大泣きはなんなんだというくらい、学校を楽しんでいる。もう泣いても知らない!

学校が終わってお迎えの時、今日はピンクタワーやったの? どうだった? ときくと「むずかしかった!」と嬉しそうに答える。きっと明日も来週も、何度もあのお仕事を繰り返すんだろう。そしてまた喜びの舞を舞うのだろうなぁ、と思うとじんわり幸せになった。

モンテッソーリ流数学教育ワークショップにいってきた

我が子の通うモンテッソーリスクールでは、ときどき保護者向けにモンテッソーリのワークショップを開いてくれる。今回のテーマは『数学』。全5回のワークショップシリーズで、先日第一回目が開催されたので参加してきた。

今回は、1歳半から3歳までの子ども向けの数。

幼児に数学とは、これいかに。早くから計算が出来る天才児を育てることかなと思うかもしれない。私も子どもが産まれたばかりのとき、数学は早くからの方がいい! と妄信してこんな本も買ってみたことがある。

赤ちゃんに算数をどう教えるか (More gentle revolution)
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現在広く使われているドッツカードはもともとこの本の著者の考案したものらしい。もちろんドッツカードを自作するのにくじけた自分はこのくもんのを買った(でも本来のドッツカードはドッツがランダムに散らばっているものなのでこれはちょっと違う)。

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さて、モンテッソーリでは、いきなり小さな子どもに数字をみせて、これは、3です、これは5です、とか、1たす1は2です、とか教えることはない。 紙の上で計算をするのはもっとずっと先で、実際のものを使ってやる。それも頭の中で「リンゴが2こ」と考えるのではなく、目の前にリンゴを2個置いて(実 際にはビーズやブロックと言った教具が多く使われるが)それを触って数えて計算する。

まぁ、計算はまだもうちょっと先。今回はそれ以前の、準備段階のお話。先生は「Indirect preparation」と言っていた。

Inderect preparation

子どもはいつから数学と出会うのか。モンテの先生曰く、産まれたときからだ。目の前に吊るされているモービルが揺れる、そのモービルまでの距離を目で見ている。殿くらい手を伸ばしたら触れるのか、どれくらいの大きさか、いくつあるのか。

ハイハイをはじめたら、目的地までどれくらいなのか距離を目測している。ご飯が多いとか少ないとかをみている。家に人がたくさん居るとか、ママしかいないとか。いろんな場面で数に触れている。

自分で体をうまくコントロールできるようになってきたら、モンテッソーリではいろんな「日常生活の練習」をする。スプーンでお豆をうつすとか、コッ プに水をつぐ、とか。これらは手首などの関節や筋肉の発達を促すだけでなく、コップに水をつぐときには、決まった量だけ注げるように目測し、それにあわせ て手首を使って調節する。これも数学を理解する上での準備だと言う。

家庭で出来る数への取り組み

この準備段階のことは家庭でかなりのことが出来る。モンテッソーリの教具は必要ない。学校の先生曰く「出来れば家庭で、学校にあるのと同じモンテッ ソーリの教具は買わないでほしい。正しいプレゼンテーションなしに教具を使い始めてわかったつもりになって、学校に来たら、もうこれやった、しってる、と いってやらなくなることもある」と。

例えば、台所で。リンゴを8つに切る。あなたにはひとつ、ママにはふたつ、パパにはみっつ。そういう会話を何度も何度も日常の中でする。

或はペアリングやグルーピング。ボタンとか、何かの種でもいい。テーブルに出して、2つずつの塊にして並べる。ふたつ、ふたつ、ふたつ、と言いながらやる。

或はグラデーション。大きさの違ったボタンをいくつか出して、いちばんおおきいのをさして「これが一番大きいね。次に大きいのはどれかな?」「一番小さいのはどれかな?」なんていうゲームをやる。

これらには出来れば魅力的なもの、子どもがつい触りたくなるようなもの、いい音がするものを使う。

子どもは数を数え間違うが、そのときに「ちがうよ、5の次は6だよ」なんて野暮なことは言わない。生活の中で何度も何度も正しい数を親が言っているとそのうちちゃんと数えられるようになる。

数学に関するモンテッソーリ教具

モンテッソーリスクールで使われるモンテッソーリ教具は、ひとつのことに対して段階を踏んで理解していくように設計されている。

数学の準備段階の場合は

  1. 数字
  2. 数字と量をマッチングさせる

というステップを踏む。

一番最初にボタンやブロックを使って数を数えているときも、3だったら3つのボタンをバラバラにおくのではなく、ひとつの塊、量として理解できるようにまとめておく。モンテッソーリの正式な教具でも、そうなっている。

たとえば赤い棒。長さの違う10本の棒だ。これを長い方から順番に並べ、量の違いを体感的に習得する。子どもは、1は小さくて、10は大きい、というコンセプトを体で吸収する。

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量の教具のあとに、ようやく『数字』が登場する。今までは数を口で言って、量を体で感じてきたが、数字、という文字そのものには触れていない。ここでは数字そのものを紹介する。

量と数をマッチングする

数字の下に、バラバラのものを並べたり、バラバラの棒を輪ゴムでまとめていれたりしながら、数字と量をマッチングさせていく。

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この教具の場合は、もっと進んだ段階で奇数と偶数の感覚も教えられる。先生がこの教具をプレゼンテーションしてくれたが、その所作が美しい。私は子 どもの役で、先生がいくつかやったあとに「やってみる?」と言われたので、先生の所作を真似てやってみた。自然と真似したくなる美しい所作なのだ。数字の カードいちまいいちまいの間は指一本空ける。青いタブレットを置くときも、ひとつずつ静かに置いて、それをふたつずつ指ですぅーっと流れるように置いてい く。さいごに、指ですっと、タブレットの間をなでおろし、奇数の場合は真ん中にあるひとつのタブレットで止まる。最初は先生はそれが奇数とか偶数とか言わ ない。子どもはその所作、交互に指が止まることをみる。

モンテッソーリは教具だけでなく、所作も美しいのだなぁ。

1時間半のワークショップだったが、何よりも先生の美しい所作のプレゼンテーションに触れられたのが一番の刺激だった。

我が子は1時間半の間、普段はあまりたちいらないこどもの家(我が子はまだ小さいので3歳児までのクラスに居る)の教具に夢中で、ひとりでいろんな教具を出して、作業して、片付けて、を繰り返し、1時間半ほとんどひとりで作業をしていた。

家で出来るモンテ教具についてはこの本がオススメ。

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そもそも、モンテッソーリって何? って言う人はこれがいい。一番コアのところがわかりやすく伝わってくる。

日本のモンテッソーリ関係の本って、日常生活の練習や、感覚教具についてはけっこう紹介されているのだが、数学、科学、植物学あたりの紹介がずいぶん少ないので、こうして数学に関するワークショップに参加できて非常に有意義でした。

もちろん次回も行くよ。

モンテッソーリの敏感期と習慣の科学

モンテッソーリ的には、子どもはうちから湧いてくる衝動にそって特定のことに敏感になる時期があるので、そこで思う存分やらせてやる環境を作るのが大人の役目であるという。

うちの小さい人の敏感期は近頃袋詰め。

近頃、といってももう半年くらいずっと続いているのだけれど、うちの子、何でもかんでも袋に入れる。パズルとかビーズとか積み木とか絵の具とか、そういう細かいおもちゃや、歯ブラシ、スプーン、漏斗、りんごにみかん、お米、お水! 何でもかんでも袋に入れる。でも、もういれたくていれたくてしかたがないっていう爆発感はあまり伴っていなくて(私が止めたりしないからかも)、自然に生活の一部として、全部袋に入れちゃうらしい。なんていうのかな、そこに袋があるから、っていうかんじ。

まぁ、これも敏感期かぁ、モンテッソーリ的にみれば…

なーんて思ってはいるのだけれど、袋に入れたまんま片付けてくれないので、すべての細々したものをまた出してもとの位置にセットし直すのが非常にめんどくさい。たいてい子どもが居ない時間に掃除をして全部リセットするのだが、我が子は帰ってくるとまた袋に入れ始めるので、袋に入れさせるためにリセットしているみたいだ。

袋詰めにするためにはけっこういろんなプロセスがある。

  1. 袋を出す(小さなビニール袋が台所に沢山あるのを知っているので、そこから取り出す。あるいはスーパーの袋など)
  2. 袋がぴったりくっついている場合は指を使ってくちをあける
  3. 指を使っていろんなものをつまむ
  4. 袋に入れる(おとさないように)
  5. たくさん入ったら袋の口を持ってぐるぐるする
  6. 戸棚のとってから輪ゴムをとってくる
  7. 輪ゴムで袋の口を結わえる(これがまだ出来ないので毎回もってくる)
  8. 袋に入ったものをみて「わぁー」という(または満足げな表情をする)

終わったおきの「わぁー」という表情はとても満足げで嬉しそうだ。彼女はこの「わぁー」という喜びに満ちた気持ちを味わうために、これをやっている。

その顔をみて、あれ? これって、Habitじゃないか? と気づいた。

モンテッソーリ視点でみると、敏感期であり、子どもはその衝動に忠実にやっていると言う。しかし、「習慣」に関する科学からみると、これってまさに「習慣」だ。

The Power of Habit: Why We Do What We Do, and How to Change
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先日読んだこの本『The Power of Habit: Why We Do What We Do, and How to Change』にでてくる、ファブリーズをどうやってメガヒットにしたのかという話で、マーケティングが目を付けたのは「掃除を終えたときの主婦の笑顔」だったというのを思い出した。人々は満足感のために何かをする習慣がある。

本書では習慣(habit)の仕組みが説明されていた。習慣とは、

  1. きっかけ
  2. ルーチン
  3. ご褒美

この3つの要素で成立っているらしい。我が子の袋詰め敏感期の場合

  1. きっかけ = 袋がそこにあったから
  2. ルーチン = とにかくつめる
  3. ご褒美 = 満足感、達成感

となっているのだろう。

我が子が産まれてからずっとみてきたが、この人の「きっかけ」はすごくわかりやすい、今のところ。別の人間である私でも、みていてわかる。何か行動をはじめたら、その直前にきっかけがある。或はそのきっかけに触れて『アッ』と思ったのがその瞬間にわかるので、次にルーチン行動が出てくるぞーとおもっていると必ず出てくる。そのきっかけは、多くの場合、場所とか、ものとかにリンクしていて、例えば

  1. きっかけ = 特定の場所を通過する
  2. ルーチン = 特定の話題をする
  3. ご褒美 = 満足感

とか。他の子どももきっとそうだろうという例だと…

  1. きっかけ = ティッシュがそこにあったから
  2. ルーチン = ティッシュを全部出す
  3. ご褒美 = 満足感

とか

  1. きっかけ = 歩道の縁がある
  2. ルーチン = 細いふちの上を落ちないであるく
  3. ご褒美 = 満足感

とか。

あれっ、モンテッソーリのいう敏感期って、習慣じゃないか。

モンテッソーリはこういう敏感期、習慣を思う存分やらせる。自分で満足するまでやらせる。そこから自律性が養われていくと言う。

The Power of Habit: Why We Do What We Do, and How to Changeを読んで出てくる例では、人々が習慣を身につけたり、変えたりした結果、自律した人間になり、生活、仕事、様々な面で良い影響が出てくる。

あれっ、同じじゃないか。

モンテッソーリの学校では、一連のアクティビティを自分で選択してひとりで活動して片付けまでする、というのを徹底している。そして、何回も何回も繰り返すうちに身に付いて、自然にできるようになってくる。これは習慣が形成されるプロセスそのものだ。

最近、本を読む旅いろんなことがリンクしてくる。子どもを持っていなかったらたぶんそういう視点では診れなかっただろうな、と言うようなのもたくさん。いやー、こどもさまさま、面白い。

うちの子の袋詰め敏感期も、ひとつの作業の終着点を『元の位置にすべて戻す』にしないといけないなぁ… その前で満足しちゃってるからどうやって変えたらいいんだこれ。

全員特別扱いする教育

先日、モンテッソーリスクールのこどもの家のオブザベーション3回目にいってきた。

こどもの家に入ると、ひとりの男の子が絶叫していた。モンテッソーリのクラスは基本的に静かなので、絶叫している子は珍しい。ずっと絶叫しているのだけれど、他の子は別に一緒になって叫ぶわけでも、うるさい! というわけでもない。さてどうするのかな、とみていると、その子は先生に抱えられてトイレに連れて行かれた。

先生は「静かにしなさい」とも「うるさい」とも言わなかった。代わりに「いくらでも叫んでいいわよ、ここでなら」といってその子をトイレの中に入れておいたのだ。

これをみて私は「ほう、こうやればいいのか」なんて思っていたが、後日、学校のダイレクターから私に直接説明があった。担任の先生があれをみていた私が誤解していないか心配だ、と言っていたのだそうだ。

曰く、あの子は「A child with a special needs」なのだそうだ。この学校には例えばダウン症とか自閉症とかの子もいて同じクラスにいるが、あの叫んでいた子もそういう特別なサポートが必要な子なのだそうだ。彼は、ロジックと感情のバランスが極端で、おとなよりずっとずっとロジカルな考え方をするらしい。ロジックでこうだ、という答えの通りにならないと納得がいかない。感情のコントロールがうまく出来ず、また、ロジックではこうだが、まぁ、こういうこともあるさ的に考えることが出来ないのだそうだ。

そういえば思い出してみると、前回のオブザベーションのとき、彼は他の子がゴミ箱に入れそびれた紙くずをみて、それを捨てた子の名前を執拗に叫んで呼び戻そうとしていた。彼の中では、そのゴミはゴミ箱に入れそびれた人が拾って捨て直さなければならなかったのだろう。私はそのとき、その子の特性を理解していなかったので、「自分で捨てればいいのになぁー」とぼんやりと思っていた。

ダイレクターの話を聞きながら、この子は例えば私が育ってきたような日本の従来型の教育システムでは絶対にマッチしないだろうと思った。もしかしたらこの「とんでもなくロジカル」という特性は天才を生むかもしれないが、みんな同じであれという世界では、落ちこぼれの問題児になる。この学校では、この子を「問題児」としてみるのではなく、こういう特性を持った子だと言う見方をしている。そしてそれにあわせて、サポートをしていくという姿勢をとっている。

友人の息子さんが同じ学校の別のクラスにいるが、彼もダウン症だ。友人曰く、学校はそういう特別なサポートを必要とする子に対して、個別にアドバイスをしたり、教具を貸し出したり、サポートの必要な子の親を集めて情報交換をする場を設けたりもしているらしい。

モンテッソーリはそもそも、こども一人一人にあわせた教育をしていくというものなので、特別学級的なものを作る必要がない。「ダウン症だから特別扱いしない」という態度は「だからみんなと同じことをしろ」では絶対にない。そもそも子どもは全員違うので、特別扱いしないというより、全員特別扱いしているという方が正しいかもしれない。

自分はいわゆる日本の従来型教育システムで育ったが、もし自分で教育システムを選択できたとしたら、あれは絶対に選択しなかっただろうなぁ、と思う今日この頃。

褒めたり励ましたりもタイミングをミスると単なる邪魔

モンテッソーリにハマってみると、集中力を途切れさせる要素って本当にいっぱいあるなあ、と感じるようになってきた。その中でも最近気になっているのは、褒め言葉やかけ声。

褒め言葉は悪い物じゃないが、時と場合をわきまえないと、単なる邪魔になる。

例えば、子どもが一生懸命はさみを使っている。線の上を切らないと、と思っているがうまく出来ない、でも一生懸命せいいっぱいやっている。そこで大人が

上手ね。
手を切らないようにね。
線にそって切るんだよ。
まぁ上手上手、そうそう。

なんて、やっている途中に言う。もし、これらのことばが届かないほどに没入しているのなら害はないけれど、そうでない場合、こういうかけ声も邪魔になるのだ。自分が同じ状況で同じこと言われたら「わかってるってば!」とかイラっとしてしまうだろう。

作業に移る前に、線の上を切ること、手を切らないように気をつけること、ゆっくりやること、などをきちんと伝えておけば、途中でいちいち言う必要はない。もちろん、子どもは一発で出来るわけではないので、線からずれるだろうし、手を切ることもあるだろう。「線に沿って切る」ことを理解していないためならば、いったん終わってからもう一度教えればいいし、それともまだ訓練が足りない為に線に沿って切ることができないのならば、黙って見守ってやればいい。

褒める=いいこと、っていう妄信は、「愛我あればすべてが許される」という毒親およびストーカーの発想と通じるもんがあるんじゃないかなぁ、という極端なことまで考えてしまう。

とはいえ、手も口もださないで堪えるって、むずかしいのですよ… 日々修行ってかんじです。

子ども観察記録のつけかたの参考

モンテッソーリのこどもの家のオブザベーションをさせていただくにあたって、その学校の運営者の先生がオブザベーションの勉強をしていたときの記録をみせていただいた。コースは1年で、特定の子を1年追いかけて観察するものだそう。

日時
始めた時間
アクティビティの名前
それを自分で択んだか、誰かのすすめに従ったか(その場合は誰にどうすすめられたか)
作業中の集中レベル
作業を自分で出来るか、誰かの手伝いが必要か(その場合は誰に手伝ってもらったか)
作業中の問題点
終了時感
所感

といった項目の表を埋めていくものだ。それをあとからグラフにすると、ひとつのアクティビティにどれくらいの時間、どれくらいの集中レベルで集中していられたのか、何時から何時が集中しやすいのか、というのが時系列でみられるようになる。

集中レベルは以下のようになっている。

Deep concentration
Concentration
Work but districted
Quiescence
Slight disorder
Disorder
uncontrollable

私も最近スプレッドシートで生活の記録を取り始めたが(3年連用日記にも書いているが欄がたりないし一覧性に乏しい)、表に言葉で記録しているだけで、グラフ化できるデータになっていない。また、集中レベルも注意してみていないし、そのアクティビティを自分で択んだか否かも記録していなかった。

記録を続けながら改良したい。

モンテッソーリ的態度と話し方

I’m doing a hard work.

ショートカットの小さな女の子が、お花の茎と葉っぱを切って小さなコップに水を注いで、それを生けていた。それをみていた他の子が、なにやってるの? ときく。それにその子はこう答えたのだ。

茎と葉っぱだけだったのは、その直前までその子の双子の姉妹が「お花を生ける」というお仕事をしていたため、茎と葉っぱしか残っていなかった為だ。それでもその子はとても凛とした態度で、尊厳を持って、茎と葉を活け、満足そうに教室の中の机にその茎の入ったコップを置いてまわった。作業をしている途中の子は、机の隅に置かれたコップをみて、ありがとう、と言う。

モンテッソーリのこどもの家の2回目のオブザベーションに行ってきた。2時間壁の一部になって教室の中を観察していたのだけれど、そこここで感動的な場面が繰り広げられていた。子どもたちの態度、教室の静けさもさることながら、モンテッソーリ教師の態度に非常に学ぶ物が多く、また、己の未熟さをたいそう反省させられた。

モンテッソーリの教室は基本的にはみんな別のことをやっているので、先生が中心に立って「みなさーん!」とか叫ぶことがほとんどない。そのうえ教師たちは非常に穏やかに、ささやくように静かに話すので、気をつけて聞かないと教師が何を言っているのか、壁になりきった私のところまで届いてこない。

教師がそんなに声が小さくていいのか、と思われるかもしれないが、これは本当に全く問題がない。なぜなら、前述の通り教師が全体に向かって話すことはほとんどなく(一応一日15分から30分くらいはサークルタイムがあり、そのときは全体に向かって話す)、ほとんどの会話が生徒と一対一な為だ。教師と生徒は一対一で必要な情報を交換し合い、教師は指示を出すわけではなく、何か頼むことがあればきちんと「Could you please?」の形で子どもに頼み事をする。

考えてみれば、私が育った日本的教育のなかで行われていたような、特定の子にしか該当しない件について教壇の上から大声で叫ぶというのは、他の子にしてみたら邪魔なことだ。その内容が、その子を叱るようなことだった場合、その子は大勢の前で辱められたことにショックを受けるだろうし、他の子は自分と関係ないのにすごく嫌な気持ちを一緒に味わう。どんな内容であれ、個人的なこともすべて教室の全員とシェアされるというのは、日本的連帯責任とか、村八分とか、和の精神のひとつの現れなんだろう。

サークルタイムにも見学していたのだが、そのときみんなで歌を歌った。歌う前に先生は「歌える人は一緒に歌ってください。もし歌いたくないのなら、静かにしていてください」と言った。「さぁ皆さん一緒に歌いましょう」でも「歌いなさい」でもない。歌いたくないという主張も認めるが、邪魔はするな、と言う。これを聞いたとき、日本で時折問題になる国歌斉唱についてを思い出した。最近はなんと口元を相互監視して歌っているかどうかチェックしているらしいではないか。そのニュースをみて、あぁなんとあほくさい、と思ったが、こういうことを大問題とする社会があるというのは事実なのだ。

オブザベーション中メモを取ってきた。教師の態度に関するメモにはこうある。

その子だけに話しかける。
遠くから指して叫んだりしない。
「しずかに!」とか大声で言わないで静かに「シィーっ」とその子だけに向かって言う。
Noを言っているのをきかなかった。
「ワーオ! ユーアーワンダフル!」みたいな過剰な賞賛もない。
ことあるごとに子どもに選択させる。
とても静かに歩く、特に教具のプレゼンテーションのときは足の指先まで神経を使っている感じ。
Pleaseやexcuse meをつけて話す。
教具が散らかってしまっても基本的には何も言わない>子どもたちが自主的に片付け始める。
子どもが使っているものに触るときに子どもに許可を求める。

こうして箇条書きにしてみると、大人が他の大人と穏やかに関わっていく上で必要なことを、子どもに対してしている、ということに気づく。自分はつい自分の子どもに対して、こういう礼儀正しさを欠いていることが多く、非常に反省させられた。

例えば私はこんなことをして我が子を冒涜している。

遠くから「No! それダメ!」とか大声で否定語をなげかける
「うるさい!」と叫ぶ
「片付けなさい!」と言う
勝手に触って「こうやるんだよー」なんて言う
「どいて」とか「それかして」とか言う
勝手に択んで与える

あぁ、自分ってなんて乱暴な人間なのだろう。反省。モンテッソーリに感化され、親業(親業―子どもの考える力をのばす親子関係のつくり方)の本を読み、気をつけていてもそれでもまだこんな乱暴なのだ。もしそういった物に出会っていなかったら、と思うと恐ろしい。

ちなみに、サークルタイムに言葉遣いについても教えていた。

ひとりの子が席を立った間に他の子がその椅子に座ってしまった。最初の子は戻ってきてその子をどかそうとしたが、先生が止めて、こういうときはなんて言うの? ときく。その子はまだ3歳できちんと話せないのだけれど、先生は落ち着いて教える。

Excuse me, you are sitting on my chair.

「それは僕の椅子だ」でも「どいてくれ」でもない。「失礼ですが、あなたは僕の椅子に座っています」だ。

もし、自分が作業している間に誰かに邪魔されたらこういいましょう。

Excuse me, you are disturbing my work.

日本語にするととても直接的で、攻撃的にすら聞こえる。ここまで直接言っていいのかな? と私は思ってしまうが。冒頭にあげたような「I’m doing hard work」的な言い方の方が柔らかいがきっぱりと拒絶を表せていていいのではないのかな? ともちょっとおもう。いずれにせよ、誰かに何かされたときに怒るのでも無視するのでもなく、冷静に言葉で拒絶を表せる能力というのはとても重要だ、自分はなかなかそれが出来ない。

もし、作業が終わっていないのにお友達に話しかけられたらこういって、作業を続け、おわったらお話しましょう。

Excuse me, can I talk to you later when I’m finished?

これが言えるか言えないかはとても大きな違いがあると思う。大人になって仕事をしていると、色々頼まれごとをしたりして集中力がぷちぷち切れることがある。その度に対応していたら自分の仕事は終わらないし、効率もがくっと下がる。人を待たせることを躊躇してすべてが中途半端になってしまうより、集中してひとつのことを終わらせて、それから次のことに集中すればよい。

モンテッソーリのやり方は、子どもは大人と違うとう大前提に基づいているが、だからといって子ども向けの話し方はしない。実際こういった言葉遣いとか態度をみていると、尊厳を持った礼儀正しい大人の態度に本当に小さいうちから当たり前に触れるということが大切なんだろう。

まずは私はもっと我が子に対して礼儀正しく接するべきだし、少なくとも冒涜するのをやめなくてはならない。

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↑ようやく最近読み始めた。

選択する能力を訓練する – こどもの家のオブザベーション

人生は選択の連続である。

Trainspottingのオープニングでレントン(ユアン・マクレガー)が走っている映像といっしょに出てくる言葉を思い出す。この映画は原作も読んだし、映画も何度もみたし、この台詞のTシャツも持っていた。

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人生は実に選択の連続である。進路や就職といったおおきな選択だけではない。

わたしたちは毎日、本当にたくさんの決断、選択を繰り返している。朝食に何を食べるか、コーヒーにするか紅茶にするか、どの服を着てどの靴をはいて、どんな方法で何処へ行くか。車を運転すれば、周りの状況に応じて判断し、ギアを変え、車線をかえる。仕事のあとに直帰するか映画を観に行くか。寝るか遊ぶか。

選択するというのは、ある程度訓練が必要な能力だと思っている。そういう前提で、子育てをしている。

我が子の通うモンテッソーリスクールでは、18ヶ月から36ヶ月までのToddler communityと、3歳から6歳までのこどもの家がある。モンテッソーリに非常に興味があり、学校にもうちょっと関わっていきたいと学校側に伝えたところ、週に一回のボランティアをさせてもらえることになった。今日は初回のため、こどもの家のオブザベーションをさせてもらった。非常に興味深い体験だった。

朝子どもたちが教室に入る前(子どもたちがプレイグラウンドで遊んでいる間)に、教室の壁際においた椅子に腰掛けて、まるで自分をその教室に同化させるかのようにして子どもたちを待った。教室の中はとても奇麗に整理整頓されていて、先生は子どもたちの入ってくる前に、教具が正しい状態にあるか(おいてある場所、中にはいっているもの、枚数など)をチェックしている。

子どもたちは一人一人入ってきて、こちらに一瞥をくれるもあまり気にしない様子で、同じく壁際で座っている担任の先生のところに行き、静かに挨拶をして、二三言葉を交わし、そして自分のやりたい作業を選択してひとりで活動をはじめる。3歳から6歳の子どもたちが、自分がやりたいことを択びとり、決断し、実行している。これをやったら? あれをやりましょう、なんて誰も言わない。

オブザベーションのルールとして、私は「子どもたちから話しかけられたとき以外自分から子どもに話しかけてはいけない」ということを言われていたので、挨拶もせずに壁になりきってみていた。子どもたちは壁と一体化している私に気づいているものの、ごく少数の子どもが近寄ってきただけで、話しかけてきたのひとりだけだった。

教室の中では全員が違った活動をしている。なぜならば教具は基本的に1セットずつしかないから。みんな自分が何をやりたいのかわかっていて、やり方がわからなければ先生にヘルプを求めるが、やり方がわかっているのならひとりではじめて、ひとりで「おわらせる」(この「おわらせる」能力もまた興味深い別のトピック)。

教室の中はとても静かで落ち着いていて、子どもたちはそれぞれの作業に深く集中している。他人を邪魔するようなこともないし、邪魔されてキーキー言う子もいない。子どもたちは教具をとても丁寧に扱い、ぶんぶん投げたりすることもない。ひとりの男の子が、小さな木のタイル(何かの数字を扱う為の教具)を、ひとつひとつとても丁寧につまみ上げ、箱の中にゆっくり丁寧におさめるという作業に30分以上も費やしていた。その物の扱い方があまりにも丁寧で、この子はきっと将来ガールフレンドもとても丁寧に扱うのだろうなぁ、とかいう想像までしてしまった。

モンテッソーリについていろいろ読んではいたし、Toddler communityはオブザベーションしたことがあったとはいえ、この静かで落ち着いた雰囲気に感動すら覚えた。

そして、先生は環境の一部である、というのがそこにあった。

幼稚園や保育園では、先生が真ん中に立って「みなさーん! おっはようございまーす!」なんてやっているイメージがあるのだけれど、ここではそんなのはない。先生と生徒が一対一で静かに会話を交わしている。先生は、子どもが助けを必要としているようならそこへ行って、静かに丁寧にやり方を教えてやる(代わりにやってやるのではない)。こどもがなにかを達成できたときに「ワーオ! よくやったわね! ユーアーワンダフル!」みたいなことは言わない。子どもたちは大人からの褒め言葉を報酬にしているのではなく、己の中の達成感を報酬に、作業をしている。

こどもの家の子どもたちは、誰かに指図されることなく、自分で毎日の活動を選択している。これは、カリキュラムが決まっていて、「みなさーん、今日はみんなでこれをやりましょう!」式の学校との決定的な違いだ。

子どもは決められないから大人が決めてやる、という態度はとても驕っていて、大人の勝手な都合を子どもに押し付けるようなやり方だと思う。「まだ小さいからわかんない(できない)わよねー」的発言も、子どもの能力を低く見積もったもので、それを言われた子どもはむっとするに違いない。

今回のオブザベーションで、自分の子どもに対する態度を大いに反省させられた。まとめると…

環境が重要。大人も環境の一部。
穏やかに話すべし。
必要以上の賞賛は害になりうる(親業訓練本からも同じ教訓を得た)
もっとものを丁寧に扱おう(私自身が)
もっとたくさん子どもに選択の機会を与えよう
必要最低限のガイドだけして、子どもが自分でやるのを見守ろう
もっとこどもを観察すべし
全体的にもっと落ち着いてゆったりと暮らそう

がんばろうー!

こどもに礼儀正しく接すること

昨日、こどもを迎えにいったときに、担任の先生が「今日お子さんははじめてtime outさせられましたよ」と教えてくれた。

Time outとは、古典的日本の躾方法で言うと「廊下でバケツ」みたいなものだが、教室の端に連れて行かれてそこでしばらく座って他の子が静かに作業しているのをみていなさい、というもの。

どうやら他の子の髪の毛をひっぱって、お仕置き部屋(部屋みたいに仕切られてはいないが)送りになったらしい。

我が子の通う学校はモンテッソーリスクールなので、教室の中にいるこどもたちは基本的に全員違った作業をしている。教具は1セットずつしかなく、自分のやりたい教具が使用中の場合、他の子がつかい終わるのをまつ。

しかし、うちの子は日本語以外の環境にいるとだいぶ口数が少ない。日本語では言える「ままがおわってから、○○ちゃん(自分)がやる」とか「貸してください」「遣ってもいい?」などといった、順番を待つとか、人に使用許可を得るとかいうのを英語で言うことが出来ないので、引っ張ったり奪ったり、問題になることが多い。そしてそのとき、きちんとI am sorryが言えるかどうか。

こういう社会的な言葉は、英語で言えるようにしてやるのが大人がすべきサポートのひとつなんだろうと、いまさらながら実感してきている。

そういう話し方を身につけてもらう為には、親であるわたし自身がこどもに対して、礼儀正しく接するのが第一だ。なかなか出来ていないけれど。わたしは自分のこどもに対して、他の人には絶対にしないような無礼なことをすることが度々ある。親子だから、という甘えたフィルタで正当化しているが、やはり肉親とはいえ他人に対して無礼に接すべきではない。まして、こどもならなおさら、親の態度がなによりも大きい比重をしめるのだから。

モンテッソーリの学校では基本的に何をやっていてもいい。例えば食事の時間でも眠かったら寝てもいい。ただし、他の人の邪魔をしないこと。人の邪魔をしないというのは、他人がしている作業やそれに費やしている時間を尊重するということだ。

我が身を省みると、例えばこどもが絵の具遊びに熱中しているそばで「そろそろごはんにしたいから絵の具おしまいね!」とか言う。そこでせっかくの集中力は途切れるし、それに熱中していると言う事実を軽視しているし、とても無礼だ。でもついやってしまう。わたしはこどもに邪魔をされると怒るが、自分がこどもの邪魔をしていることもかなり多い。

こどもに対し礼儀正しく接することは、以前書いたように「あなた」メッセージではなく「わたし」メッセージを使うことにも通じるはず。

親業日々修行である。

踏み台という環境

小さい人が学校へ行っている間に、踏み台を二つ、買ってきた。

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小さい人は今まさに「魔の二歳児(まだ二歳前だけれどそろそろ)」「イヤイヤ期」のまっただ中。あれこれやりたい! 小さい人と、それをやられると困っちゃう、めんどくさい、いやだわ、という母との戦いの日々でもある。

いやいや期とは言うが、小さい人が主張しているのは「じぶんでやりたい!」「あれもこれもやりたい!」と言っているのであって、別に「何をするのもいや」な訳ではない。

日常的に戦いの舞台となりやすい例に台所がある。私が何かをはじめると「あがるの!」を連発する。小さい人の高さからでは、私が何をやっているのか見えない。ちょうど良い踏み台がないので、私は「ちょっとまって!」といってしまう。そうすると「あがるのあがるの!」「ちょっとまってってば」「あがる!」「まって!」「あがるあがるあがるあがるあがる!!!!!」「あーーーーもううるさいっ、あげればいいんでしょあげれば!」といって小さい人を作業台にあげてしまう(お行儀悪いのは重々承知ですが…)。

作業台に上がったらこんどは「きるの!」「あらうの!」「こねるの!」「ほうちょとって!」「おみずちゃん!」「ねんどー!」などなど、とにかく要求がいっぱい。私は料理をしているのでまた「ちょっとまって」「ていうかそれあぶない!」「ぎゃー! 水浸し!」「もういやー!」となる。

この戦いは本当にイライラする。小さい人は何一つ悪くないのに、私の手間が増えるとか邪魔をされるとか言う理由でいらついてしまっている。そして私がイライラしてくると、小さい人のこころもがさがさしてきて、ものを放り投げてみたりする。それにまた「こらー!」。悪循環だ。

しかし冷静になって考えてみると、この戦いがおこる原因は、小さい人が自分のやりたいことを自分ひとりで出来ず、だれかに手伝ってもらう必要がある、という点だ。誰かとはつまり私なのだけれど、私の方は邪魔されたくない、という気持ちがあってつい「ちょっと待って」を言ってしまう。

そんなわけで、小さい人が他人に助けを求めなくてもやりたいことが出来る環境を整備する、というタスクをたてた。まぁ、これがいわゆるモンテッソーリの環境づくりなのだけれど。小さい人の学校へ行くと、すべてが小さい人向けに作られていて、小さい人たちは大人に何かを頼まなくても自分で好きなことを出来るようになっている。ところが、私たちはこの家に来てからまだ間もなく、いろいろと揃っていなくて、大人用の空間で小さい人に暮らしてもらっていたのだ。踏み台は買わなきゃなーと思いつつ、可愛い木製などを探していたが見当たらず、買わないままになっていた。

今回買ってきた踏み台(残念ながらプラスティック製)は、折衷案、みたいなものだ。子供用のシンクは作れないけれど、自分で踏み台に登れば、ひとりで手を洗うことも、お料理を見ることも出来る。今日はその他にもちょこちょこと環境整備をした。それぞれのアイテムについて期待される双方のメリットなどをまとめてみる。

踏み台(ひとつは台所、ひとつはお手洗いの洗面台のところにおいた)
子供側:自分で移動して登り、手を洗ったり、大人と並んで作業したりできる
大人側:登らせろと言われなくなる。シンクに座って「お風呂〜!」と言ってそこら中を水浸しにされることが減ると期待

小さなテーブル
子供側:使いやすい高さで様々な作業が出来る
大人側:作業台の上に登ってこられることがなくなる。向かい合って作業が出来る。

子どもの高さにお水の入ったジャグとコップの載ったお盆を置いた
子供側:飲みたいときに自分で飲める
大人側:お水ちょうだい、に作業を中断されることがなくなる

低い位置につけたフックに小さいほうきをかけた
子供側:自分でほうきを持ってきて掃除が出来る
大人側:掃除中にほうきを奪われることが減るのではないかと期待

たくさんの小さなタオルを置く場所を作った
子供側:拭き掃除や手を洗ったあとなどいちいち「タオル」と頼まなくていい
大人側:いちいち「タオル」と頼まれなくなる

重曹水入り霧吹きとタオルのお掃除セットを設置
子供側:いつでも好きなときに拭き掃除が出来る
大人側:掃除道具を奪われない、作業を中断されない

こうして見ると、大人側のメリットは「いちいち頼まれなくなる」、子供側のメリットは「いちいち頼まなくていい」ということだ。

実際、小さい人が帰ってきてから、まずは踏み台の使い方を紹介したところ、とても嬉しそうな顔で自分で台所の水道をひねって手を洗っていた。洗い終わると「タオル」というので、タオルが重なっているところを示すと、一枚とって手を拭いた。拭き終わったタオルは洗濯かごへポン。

こうして、タイミングをみて小さい人用に整備した環境を紹介していったら、今日は私のイライラも少なかったし、小さい人が私に何かを頼むこともぐっと減った。

小さい人は、日常生活のいろんなことに参加したくて仕方がないらしい。掃除洗濯炊事ぜんぶ、なんでもかんでもやりたがる。けれどもそれらの道具はすべて大人の為に出来ていて、もし何かしたければ大人の許可や手助けが必要になる。それをいちいち頼むのはストレスだろうし、言われた大人もイライラしてしまう。そうしなくていい環境整備、それが重要なんだろうと思う。

次はモップかな。