幾たびにも及ぶ、国境を跨ぐ引越しを繰り返し、その度にたくさんの本たちとの別れを繰り返してきた。しかしなぜかいつもそれでも持ち歩いている本というのがあって、その中の一冊がミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』だ。
この本がなぜ好きなのかと問われるとうまく答えられないのだが、この本は私にとって、お風呂の中やピクニックやビーチに行った時にパラパラとどこからでも読む本のひとつであり、何度も目を通してきた愛着があるのだろう。
その時の人生の状況によって、登場人物それぞれに感じる共感や反発が変化する。ふとした時に、この本の中の一節が思い浮かんだりする。何度でも味わえる本だ。
私は大人になってからのほとんどの時間を、サビナみたいに生きてきたという思いがある。軽く、何者にも執着せず、弱さを見せず、弱さを見せるに至る前に身を引く。でも、心のどこかで、ドロドロの重たいテレザみたいになりたいという憧れがあったりもする。嫉妬や悲しみに苦しみつづけるテレザ、なぜそうなりたいのだろうか? それだけ弱さを見せて悲しみ苦しむことができるだけ愛する人と出会うという一点が羨ましいのかもしれない。
Einmal ist keinmal(一度だけしかないことはなかったも同じ)というドイツのフレーズが出てくるが、これについても度々思うことがある。一度だけのことは軽いことだろうか。私たちの人生は、一度しかない、なかったも同じだろうか。でも人生の中で起こるエピソードのなかには、一度しかなくてカウントしないことも実際にある。
メタファーで遊ぶことは危険を伴う、というような表現もあった。私は近頃この本に思うところがあって、自分自身をサビなやテレザと比べて考えたりしている。多くの場合メタファーではなく直喩で考えているけれども、ふとした瞬間メタファーの遊びに陥る。そして気づく。
重さと軽さは、どちらが優れているのだろうか。軽さを持って生きることは、選択したが故の生き方なのだろうか。それとも絶え間なく襲ってくる人生の大波小波を乗り越えるための術として、軽さを身につけたのだろか。重さを持って生きると、波が襲ってくるたびにおぼれてしまう。引き揚げて抱きしめてくれる誰かがいなければ、そのまま海の底で死んでしまうのだ。
テレザとトマーシュは田舎で一緒に暮らし死んでいったことが、結局彼らの幸せだったのだろうか。テレザはトマーシュを独占できて、嫉妬に苦しめられることなく、幸せだったのだろうか。サビナはひとり軽さを持って生きてゆき、それが彼女にとって幸せだったのだろうか。
私は人生においてたくさんの幸せを感じてきた。いつも今が幸せだと思っているし、瞬間瞬間は幸せに満ちており、過去の苦しみなどすっかり忘れてしまう。けれども人生全体を見渡した時、幸せとはなんだろうか、と改めて考えてしまう。
私は刹那的快楽の連続の中で生きているのだろうか? 苦しむことを恐れ、重さを拒否して、生き延びるために軽さを選んできた。しかし、愛する人やもののために苦しむことも、一つの幸せではないだろうか?
人生の中で時々テレザのようになるときがある。そこには苦しみと幸せが同居しているのではないだろうか。サビナのように生きている時は、苦しみとは無縁であり、自信に包まれ幸福感もあるが、そこには自分しかいない。
トマーシュが同僚と踊るテレザを見て、テレザは他の誰とでも恋に落ちる可能性があったが、たまたま自分だっただけだということに気づき嫉妬に狂ったことがある。トマーシュはサビナの軽さを楽しみ、テレザの苦しみに苦しむ。それでもテレザと離れることはできず、テレザの痛みを一緒に感じる。けれども、テレザの痛みを軽減するために自分の行動を変えることはできない。
人生のほぼ全ては偶然に支配されており、一度しか起こらない。私が今まで出会ってきた人たちは皆、数多くの「たまたま」が重なって出会ったにすぎない。それに意味を見出すことはできるのだろうか? それとも「たまたま」の連続だからこそ意味があると言えるのだろうか。
人生は予測不可能で計画通りにいかない。では計画を立てることは無駄なのであろうか? 計画通りにことを進めようとするのは間違っているのだろうか?
最近読んでいる『Black Swan』という本にもそう言ったことが出てきた。事故っからの出奔、パートナーとの出会い、仕事、いったいどれだけのことが計画通りに進んだだろうか? 全てはたまたまの連続に過ぎないのではないだろうか。
運命とはなんだろうか。トマーシュがベートーベンの弦楽四重奏曲第16番の”Muß es sein?” “Es muß sein!”(そうでなければならないのか? そうでなければならない!)というフレーズを使う場面がある。人生において「そうでなくてはならない」ことはなんだろうか。それが「そうでなければならない」と決める要素はなんだろうか。自分自身がそう感じている、ということの他になにかあるのだろうか。
私の人生はたまたまの連続であったと同時に、そうでなければならなかったともおもう。たまたま閉鎖的な日本の田舎に生まれ、たまたま父を早くに亡くし、たまたま母親と関係が悪かった。生き延びるために、私はそこを出なくてはならなかったし、生き延びるために仕事をして、国を移動して、自立し、強く、そして軽くならなくてはならなかった。けれども、他の選択肢を取る人だっているし、これが「そうでなければならない」としているのは私自身でしかないのだ。
永劫回帰という考えは私にとっては恐ろしいものに思える。しかし、一度しか起こらない人生を、なかったも同じ軽いものと捉えることも素直にできない。一度しか起こらない私の人生を、世界中のあらゆる人の人生を、なかったも同じものとすることはできない。しかし、やはりこの人生を何度も何度も繰り返すもので、今感じているこの感情も、幾度となく繰り返されてきたもの、運命に支配されているものだと考えることは、苦しみを伴う。それはそれで、一度のこのエピソードがとても軽いものになってしまうような気がするのだ。
一度しかないとても軽いなかったも同じ人生が、それが一回きりでとても軽いが故にとても重い、と考えることはできないだろうか。私の人生はこれっきりで、昨日の私はもういないし二度と帰ってこない。なかったも同じ、もう消え去ったものだ。けれどもだからこそ、全ての物事、一瞬一瞬が、重さを持ってくるのではないだろうか。