脳味噌の自己融解を防ぐ – 「ハッカーと画家」を読んでその2

2008くらいに書いた。

ハッカーと画家 コンピュータ時代の創造者たち
ポール グレアム
オーム社
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「ハッカーと画家」を読み始めたときの感動はここ.そのとき浮かんだことをそのまま書いてある.読み終わってあらためて、自分の状況に置き換えて考えたこと.

あるウェブサービスを知ったとき、それがまだバージョン1で、十分なユーザを集めていない実験的なものだったとしたら、即ユーザ登録をして使ってみる、というほうをとりたい.たぶんそこにはまだまだバグだらけで、使いづらい部分もあるだろうけれど、そういうバグを探して、サービス開発者に教える.そうするとなにか、自分も開発に参加しているような喜びも得られる.

多分、ベータの段階で使うことに抵抗がある人もたくさんいると思う.でも、わたしの印象としては(一概には言えない、あくまでも個人的な印象)サービスのバグが取れて落ち着いて、ユーザが増えてポピュラーになってきたときには、なんというか、最初の段階のエキサイティングさがなくなってしまう気がする.

たぶん、開発も落ち着いてしまい、運用、オペレーション業務中心の作業ばかりにおわれ、やれるとしてもある特定の機能の追加とか、ちょっとしたバージョンアップとか、その程度の開発になってしまって、開発者としても少しばかりうんざりしているに違いない.

開発者のうんざり気分というのはなんとなく伝播するのか、メジャーになったサービスの開発に参加したい! と思うあたらしい開発者がアプライしてくると同時に、当初の開発者は抜けて、別の新しいエキサイティングな開発に移っていくんじゃないかと思う.GoogleもTwitterもそうだ.ひとところに落ち着いていられないんだろう.

こういう「エキサイティングさを重視する」とか、「ひとところに落ち着いていられない」とか、そういう態度って、たぶん、こういう業界以外のひと、たとえばわたしの母のような人間から見ると「危なっかしいギャンブラー」に見えるに違いない(実際そんなようなことを言われたこともある).中学の頃、仲の良かった先生、今でも飲み会に呼んだりする先生に「お前はギャンブラーだもんな」といわれたことを思い出す.ギャンブルは人生じゃないが、人生はギャンブルに近いのかもしれない(from the other point of view).

こんなことをいってしまっては元も子もないけれど、わたし自身が今自分の仕事で、どうも行き場のないどん詰まり感のようなストレス、というか圧迫感のようなものを感じているのはそのせいだと思う.外的要因じゃない.誰かにストレスをかけられているわけでは決してないし、誰よりも働きやすい環境においてもらっていると思う.まぁ暮らせるだけのお給料はもらっているし、仕事に関しては一目置いてもらっているし(ただし、今のところほかに誰もいないから、というだけなのかもしれない)、自分自身納得がいかないけれど、こうしてどん詰まり状態でまともに作業が進まない日の多い月でも、同じだけのお給料がもらえる(不思議だが有難い).

それでもなにかストレスがあるように感じるのは、原因は単に、自分自身の性質がそうなわけで、小さなカスタマイズ、それも「やらされている感」のともなうそれ、日々の運用業務、それに時間をかけるのがどうしても苦痛だ(これは以前からずっと感じていたけれど、今まで生きてきた社会で「やらなきゃならない単純作業に苦痛を感じる」というのを表に出すのはタブーとされている風があるため、人には言わなかった.子供でも言わないだろ、文句言うな、というはなし.実際そのとおりだし).本当はすることが腐るほどあるのに、その「すること」じゃなくて、脳みそのほうがどんどん腐っていっている感じがするのだ.

「腐っている」という直接的な言い方はしなくとも、時々わたしが「脳味噌を取り出してママレモンでしわとしわの間をきゅきゅきゅッと洗いたい」とか言い始めたらそれは、エキサイティングさを見失い、ブレイクスルーを必要としているときのサインだ、たぶん.「洗うべきしわが見当たらない」なんていい始めたらもう相当重症だ.

脳死患者の脳細胞は酵素を出して、脳みそを自己融解させる.しばらく脳死状態で「生かされて」いた肉体(あるいは死体)から脳みそを取り出すと、どろどろに解けていて、指と指のあいだからにゅるりとこぼれ落ちてしまうのだそうだ.

今まさにわたしは自分の脳みそがそのような状態にあるような気がする.で「ハッカーと画家」を読んでいたら237ページにこんな言葉があった.

今の仕事で脳味噌が腐っていってるんじゃないかと心配しているとしたら、多分腐っているよ.

だろうな.そしてみんな、そういう感覚を味わったことがあるんだな(この本を書いた本人でさえ、その経験があるからこの言葉がある).それでももっとすばらしいハッカーになっていくんだ.

この本の最後のパラグラフ.

自分をすばらしいハッカーにすることができるとしたら、その方法とは、自分自身に対して次の契約を結ぶことだ.以降、退屈なプロジェクトの仕事は一切しなくてよい(家族が餓死しそうでない限りは)、その代わりに、絶対に中途半端な仕事はしない.

幸いなことに、いまのところわたしが食わせるべき存在は、自分自身と猫2匹だ.

マイクロソフトがかつて成功したのは、IBMが落ちぶれていくチャンスを見逃さなかったからだそうだ.IBMが落ちぶれていかなかったら、マイクロソフトの成功もなかったかもしれない.ちょっと汚い例だけれど、これは、成功の一つの「きっかけ」だ.

友達を見ていて思う.「きっかけ」が彼女の周りにわんさと集まってきているのに、彼女には何も見えていない.もしかしたらわたしの周りにも、「きっかけ」がわんさと転がっているのかもしれない、ただ見えていないだけで.

我がバイブル、ハッカーと画家

2008年くらいに書いた読書感想文。句点の代わりにピリオドなあたりとか当時の時分ぽい。なぜ最近古い読書感想文をだしてきているかと言うと、出産を挟んで、まるで別人のようになってしまった感じがするから。出産以前の自分の感性がどうだったか思い出したいのです。

ハッカーと画家 コンピュータ時代の創造者たち
ポール グレアム
オーム社
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ペー ジごとにたくさんの心に留めておきたい言葉達が出てくる.いちいち折っていたら本が分厚くなった.途中から鉛筆で線を入れ始めた.ページの中に何箇所も マークがついた.どまんなかをすぱっと、でもさらりと言ってくれている.それが、わたしが言いたいことを代弁してくれているから気持ちがいい、とかいうよ うなものじゃない.こんなに線を引いた本は久しぶりだ.

最近、行き場のないどん詰まり感を感じていて、これだ、というブレイクスルーを探 し求めて迷走しているのにみつからず、人と話せば脳に膜がかかったように感じたり、逆に、おし! やったるで! と思ってみたり、でも一人で考え始める と、わけがわからなくなり、なにがわからないのか、何に行き詰っているのかも見えない.ミーティングのあと上司に『顔色が悪いですよ』と言われて、『どう してもすっきりしないんです』としか答えられなかった.自分でも分からないんだもの.そのままお酒の席に突入し、しかし仕事の話題にはならず.酔っ払って 帰ってすっきりしないまま眠りについた.

で、夜中の3時に目が覚めて、この本を開いてみた.

ハッカー友達で画家の Gordiを思い出した.彼は画家でありハッカーだ.オープンソースのプロジェクトに絡んでいるし、やらされるのが嫌いだ.いつも妙な柄のシャツを着てい て、ジョークと子供を愛している.二人でゴーゴーバーにビールを飲みに行っても女の子のお尻を眺めながら、コードの話をしているような人だ.彼はまさに ハッカーであり、決してプロダクトマネージャーじゃない.コードを書くのが、物を作るのが好きな人、なのだ.そして、ジョーク好きだ.彼のコードの中に は、たくさんのジョークがちりばめられているし、わたしと彼のメールのやり取りは、仕事上のものであれ、時にジョークと間違われる(例えばすべてXMLの タグみたいのでくくっちゃうとか).それをこっそりモニタリングしていた上司には理解できなかったようだけれど.

そういえば近頃めっきりビールの誘いがないが、そもそもこのへんにいるんだろうか?

小 さいころ、自分は何になりたいのか、というと「物を作る人」だった.それが、高校生くらいの時点で、「情報を発信するものをつくるひと」に軌道修正され た.そして、それから数年後の今、「情報をやり取りするものを作る人」になりたい、と思っている.『なりたい』ではなく『で、ありたい』が正しいのかもし れない(なりたい、といったら、古本屋のおじいちゃんだ).情報っていうのは文字だとかデータだとかだけではない.音声や映像だけじゃない.ひとつの木彫 りの人形だって、料理だって情報だ.尊敬するとある御仁は、「自分の飯も作れない奴が何がクリエイターだ」と言う人だった.その点では、彼はわたしを認め てくれていたと思う(自分を『クリエイター』という言い方はしなかったけれど、ご飯は自分で作っていた).彼が言った言葉のうちで最も印象的で、最も納得 した言葉がそれだ.

ま、話を戻して.

この本には、本当にたくさんのたくさんの、すばらしい言葉が出てくる.それは、自己 啓発とか、そういう目的のためにかかれた本ではなく、ハッカーが、ハッキングを愛していることを切々と語った本だからだろうと思う.ある種のラブレターの ような本だ.そして、そこからまなぶことはたくさん、たくさん、ある.愛を語るとき、嘘があると分かるものだもの.この本はfull of love.

そ うだ、わたしがすきなウェブサービスの多くは、始まったばかりのころは、コードを書いた人の愛が感じられた.例えばasoboo.comや、 stack.nayutaya.jpも、ああ、これを作ったひとは、これがすきなんだ、というのがひしひしと伝わってくるものだ.ほかのサイトもみんな、 とくに大手じゃない、個人のハッカーが作ったサイトのほとんどは、当初は愛にあふれたサイトだったはずだ.それが徐々に巨大化し、お金が絡み始め、ハッ カー一人の意志では動かなくなる.いま、GoogleからFacebookやFriendFeedに人が流れているのも、なにか新しいことを始めるそのエ キサイティングな感じがキモなんじゃないかと思う.

ひとつのプロジェクトを何年も続けて、新しいアイディアを新バージョンとして取り込むのではなしに、時々はゼロから始めてみるんだ(30ページ).

まさにこれが、わたしが今熱望していること.そしてそれをうまく始められないがために、脳みその膜がとけてくれない.

愛を再認識するための言葉のクリッピング.

「レッテル貼りには、メタレッテル貼りで対抗するんだ」
「誰かがそこを見るかどうかには関係なかったのだ.彼はマイケル・ジョーダンと同じだ.妥協しないんだ」

子供は親をクビにする – そうならない為の親業訓練

親業―子どもの考える力をのばす親子関係のつくり方
トマス ゴードン
大和書房
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★★★★★

親業―子どもの考える力をのばす親子関係のつくり方』を読み終わった。

親は、素人である。こどもが出来たら親になる。親になるのには資格はいらないし、研修コースに参加せずとも、親業をはじめられる。仕事でもスポーツでもなんでも、うまくできるようになる為には訓練が必要である。親業もそうだ。このことについては、10代の頃から薄々感づいてはいたが(自分が自分の親をクビにした経験から)、実際自分が親になってみるとなおさら実感する。自分は素人であり、効果的な親業を営む為には、知識と訓練が必要だ。もし今何もしないでいたら、娘が思春期になったら私は親業をクビにされるに違いない。

世の中のほとんどの親は、その親から引き継いだ方法で子育てをしている。毒親に育てられると自分も毒親になる可能性が非常に高いようだし(わたしもそれを恐れているので勉強している)、毒に限らず、いいも悪いも含め、親と同じことをしていることが非常に多い。そうして2000年前から脈々と続けられてきた方法で、私たちもこどもを育てている。

けれども、2000年前の方法ではいろいろとあわないことが沢山ある。現代では科学や心理学が発達し、実際に効果的か否かというのが計れたり、様々なことの因果関係がわかってきている。そして2000年前の様々な方法がこどもの発達によくないということも明るみに出てきている。

わたしたちはラッキーだ。こうして様々な情報を得、自分たちの親業を見つめ直すことが出来る。わたしたちの親の代、その親の代には、親業についての情報なんて限られていたし、こうして考えるきっかけもすごく少なかったに違いない。だから、いままで負の流れを止められなかった。でも、わたしたちなら出来る。

さて、本書の内容を簡単にまとめておく。本書にはいろいろと詳細にわたって、親業のテクニックが解説されているが、ポイントとなるテクニックは、以下の3つではないかと思う。

能動的な聞き方を使う
「わたしメッセージ」を使う
「勝負なし」法

これらを効果的に使うことによって、親子間の無駄な対立が避けられ、対立がある場合には公平に双方が納得いく方法で解決策を見つけ出せる。なにより、大人とこども(あるいは家族のメンバーそれぞれ)が、お互いを尊重し、落ち着いた気持ちで暮らせるようになる。
能動的な聞き方

心理学や他の子育ての本を読んでいてもよく出てくるのがこれ。「能動的な聞き方」と言われるとピンと来ないかもしれないが、簡単に言うと相手の言うことを否定したり、解釈したり、説教したりせずに「ふーん、そうなの」といった態度でいること。かける言葉は基本おうむ返しだが、ポイントとしては言葉そのままのおうむ返しだけでなく、心理的おうむ返しをすることだ。

例えばこんなかんじ。

子「学校に行きたくない」
親「そう、学校に行きたくないのね」(能動的な聞き方)
子「うん、行きたくない。Aくんに会いたくないんだ、けんかしたんだ」
親「そうなの、Aくんと喧嘩してもう会いたくないから、学校にも行きたくないのね」(能動的な聞き方)
子「そうだよ。Aくんにすごく怒っているんだ。学校に行ったら顔をみなくちゃいけないから。でも学校に行かないと他の友達にも会えないなぁ」
親「他のお友達に会えないのはつまらないのね」(能動的な聞き方)
子「うん、それにみんなで遊ぶときもいつもAくんも一緒だから楽しいんだ」
親「Aくんも入れてみんなで遊ぶのは楽しいのね」(能動的な聞き方)
子「うん、楽しい。やっぱりみんなで楽しく遊びたいなぁ。Aくんと仲直りしたい。」
親「Aくんと仲直りできたらみんなでまた遊べるのね」(能動的な聞き方)
子「そうだね、明日学校へ行ってAくんと話してみるよ」

自分ではけっこうこれは出来ていると思っていたが、本書に出てくるダメな例を読みながら、自分はダメな例をたくさんやっているなぁ、と気づいた。

例えば今日の夕食の席。

子「ごはんたべないの」
私「どうして? おいしいのに、食べてごらん」(質問、尋問、提案)
子「これやってるから(なんか他のことをしながら)たべなーい」
私「せっかく作ったのに、ちょっと食べてよ」(指示、命令)
子「いらなーい」
私「食べなさい、食べないと片付けちゃうよ、いいの?」(命令、脅迫)
子「だめ、かたづけちゃだめー、たべるの」
私「じゃ、食べて」(命令)
子「いらなーい」
私「じゃ、もう片付ける」(中止)
子「ごはん〜! うわぁ〜ん!」

ほんとにダメな例そのまんまである。私は娘の問題を勝手に取り上げ、勝手にそれを処理してしまっている。

本書に出てくるいい例では、能動的な聞き方をしていると「なんで?」と聞かなくても子供の方からどうしてそういう反応をするのかの理由を話してくれることが多い。ほんとにそんなにうまくいくのかなぁ、と思うところもあるが、能動的に反応されると反抗する要因がないので、そうなっていくのかもしれない。

今こうして自分の例をみていると、最初の段階で娘は「○○しているから」という理由を言っているが、私はそれを無視している。近頃の我が子は何でもNOで、それに対して必ず「○○しているから」と理由を付けるのだけれど、それらが実際関係なことであることが多く、私はついそれを無視してしまっている。また、娘はまだ語彙が少なく、きちんと説明することが出来ないので、つい私がそれを軽くあしらっている。聞いていない。猛省。

能動的な聞き方で返すと、こどもは何も否定されず、脅迫も命令もされず、自分の問題は自分の問題として考えることが出来る。親が提案したり、命令したりすると、その時点で問題は親の問題となってしまい、子供はそれに徹底的に反抗するか、その問題を自分で解決することを放棄する。

この『問題の所有者は誰か』という視点は、能動的な聞き方を実践する上でとても重要なポイントだと思う。
「わたしメッセージ」を使う

子供に何か言うときに、それが「わたしメッセージ」であるか「あなたメッセージ」であるか意識すると、驚くほど「あなたメッセージ」を送っていることに気づく。あなたメッセージではこどもは否定され、侮辱され、傷つけられる。それに対して反抗したり、あるいは表面上は従ったりしても内心憎しみを抱いていたりする。

例えば、子供が騒いでいてゆっくり新聞が読めない父親の例。

「あなたメッセージ」で子供に何か言おうとすると…

うるさい! しずかにしろ!
あっちへいけ。
そんなに馬鹿みたいに騒ぐな。
もう赤ちゃんじゃないだろう。

「わたしメッセージ」ではこうなる。

(わたしは)落ち着いて新聞が読みたいんだがなぁ。
(わたしは)周りがうるさくて気が散ってしまうよ。
(わたしは)うるさくて新聞の内容が頭に入ってこなくて困ってるんだがなぁ。

このような場面での「わたしメッセージ」はよく使っているが、どうも我が子には、私が実際どれくらい迷惑を被っているのか、不快な気持ちでいるのかが伝わっていないのか、それとも、相手が不快であることは素べきではない、という気持ちがまだ育っていないのか、なかなかドンピシャな効果は得られていない。ただ、うるさい! やめなさい! と言う場合に比べて、もう本当に圧倒的に反応が違うので(うるさい! と言った場合は、反抗する)、効果がないわけではない。

娘はよく私の食事の邪魔をする(食事中にこちらの椅子によじ上ってくる)ので、いつも「わたしは落ち着いてご飯が食べたい。邪魔されると困る」ということを伝えているが、未だにやる。しかし、今日夕食のとき、遊びにきていたとなりの猫にお魚をあげて、それをじっと見る娘が「じゃましなーい」と言っていたので、伝わっているんだろうと思う。

あなたメッセージを使うと、子供は自分が悪い子だ、バカだと感じ、自己肯定感が育たない。わたしメッセージの場合、問題の所有者はあくまでわたしであり、あなたではない。

私自身、こどもの頃傷ついた母親の言動は、みんな「あなたメッセージ」だったことを思い出した。情けないが、いまでもたっぷり引きずっているし、おかげさまで自己肯定感はなかなか低いまんまなので、「あなたメッセージ」の弊害はよく理解が出来る
「勝負なし」法

多くの親は、親子間で対立が発生した場合、「親が勝ち、子が負ける(第1法)」か「親が負け、子がかつ(第2法)」で解決しようとする。第1法の場合、子は親の力で解決策を強制され、表面上従うが内心怒りが溜まっている。第2法ではその逆で、親はいつもこどもに譲歩してこどものやりたいようにさせるが、本当はそうしたくないと思っている。「勝負なし法」は、これらとは違って、両方が納得する解決策をだす、という方法だ。

これは、友人間で何か決めるときなどを想像するとわかりやすい。あるいは会議でもいい。何か解決しなくてはいけない問題が起こったとき、友人間であればどちらかがねじ伏せるわけではなく、双方納得いく案に決着することが多い。これを親子でやる、というだけのことだ。ステップは以下。

何についての対立かはっきりさせる
色々な解決策をだしてみる(当事者全員で)
出てきた案をひとつずつ検討する
一番いい解決策を択ぶ(誰もが納得するもの)
実行方法を考える
うまくいっているかどうか調べる

ポイントは、当事者全員かつ、当事者以外は席を外した状況で、それぞれが意見を出し合うというところだ。そして、誰もが納得いく案をえらぶ。そうしたことによって、参加者はその解決策に対して自分も責任の一端を担っているという気持ちになり、責任転嫁したり、実行しなかったりすることがぐっと減る。もちろん、一度えらんだからと言ってそれがうまく行くとは限らないし、無理があったりすることもあるので、フォローアップをつづけ、うまく言っていないようなら何が問題なのかまた話し合えばよい。

本書を読んでいると、モンテッソーリの基本理念とか、心理カウンセリングとかに非常に通じる部分を感じる。根底にあるのは、こどもをきちんと尊重するという気持ちだと思う。尊重しているから、判断を出来るだけこどもに任せ、それによって子供はやる気や責任感を持つ。相手に解決策や批判を押し付けられることがないので、反抗する必要もない。

私はまだ親になって2年目、親業について勉強中の身。まだまだ未熟でうまく出来ないことだらけだ。ただ、子供業はもう30年以上やっていて、10代の頃自分は親をクビにした。どういう扱いを受けて傷ついたか、どうして反抗してきたか、どうしてほしかったか、そういうことを少しだけれどまだ覚えている。根底には「子供には自分のように育ってほしくない。自分の親のようにはなりたくない」という思いがあり、脈々と受け継がれてきた毒親の系譜を、私の代で断ち切りたい、と勉強している。

ちなみにこの本は1977年に出版された物で、いささか古い。内容的には非常に納得のいく物であるが、過去40年くらいの間に、もっとさまざまな研究がすすんでいるはずなので、アップデート版があると嬉しい。

一生涯続けたストーキングが実を結ぶ話 – コレラ時代の愛

ずっと前に書いた読書感想文が出てきた。5年以上前に書いたもの。

コレラの時代の愛
コレラの時代の愛

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ガブリエル・ガルシア=マルケス
新潮社
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装丁がとても素敵。カバーのデザインも素敵だし、カバーをはずした裸の本も素敵。手触りも好き。 ガルシア・マルケスは『予告された殺人の記録 (新潮文庫)』でハマリ、『エレンディラ (ちくま文庫)』を読み、これが3冊目。

予告された殺人の記録 (新潮文庫)
G. ガルシア=マルケス
新潮社
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『予告された殺人の記録』ではまったのは、その構造の妙もさることながら、ディテールの描写が、かなり好みだったためだ。

うまく表現できない己の語彙の乏しさに情けなくなるのだが、なんとうか、からりとした感じ、なのだ。からりとした感じで、お腹からぶら下がる腸がお日様の光にキラキラ光っている感じなんかが描写されている。

『コレラの時代の愛』も、随所随所に、なんともいえない、からりとした、なんとなく滑稽に見える表現がたくさんでてくる。話の本筋にはまったく関係なく見えるディテールの描写がいいのだ。

さて、描写はともかく、この話はすごい。

二十歳くらいの男が、ある少女に恋をした。彼は何ヶ月もじっと彼女を見詰めていて、彼女のほうも気づいていて、お互い意識しあうようになる。男は勇気を出して手紙をわたす。しばらく返事がなかったのだけれど、彼女も返事をかく。その後しばらく二人は熱烈な手紙のやり取りをしていたのだけれど、女のほうの父親の反対にあい、女は父親に連れられて旅にでる。旅にでている間も二人は熱烈な手紙をやり取りし、恋の熱にうかされる。旅にでて1年半後、出会って4年後、街に戻ってきた女は、偶然を装って市場で声をかけてきた恋人、手紙のやりとりだけで愛を語らっていた恋に会い、一瞬で恋が醒める。

その醒め方がすごい。いや、女はこう言うものだ。もう、自分がその人に恋していたことすら認めたくないような、一瞬で嫌になってしまうのだ。ああ、あれは単なる勘違いだったんだ。ごめんなさい、勘違いだったのよ。

女はその後、一人の博士と結婚し、幸せな結婚生活を送る。その間も最初の男は彼女を片時も忘れることができず、独身を貫き、何十、何百という女とアバンチュールを楽しむ。それはそれでちゃんと女性たちを愛しているのだけれど、結局のところその一人の女性が忘れられない。自分の家を彼女と結婚した時のために改装し、たくさんの女たちと愛の行為を持つが、自分の家ではそれはしない(一人を除いて)。 何をやっていても、毎日毎日、彼女のことを考えている。

その「忘れられない」身勝手さもすごい。自分がきっかけで女が殺されても、自殺しても、まず考えるのは「これが彼女の耳に入ったらマズイ」という保身からくる不安。とにかく、おなじ街に暮らしていて、それぞれが社会的地位もあるので、何度も顔を合わせることがあるものの、女のほうはもうなんとも思っていなくて、どうも、と挨拶する程度。

しかし、男のほうは、彼女の夫の死を望み続ける。そしていずれ彼女と結ばれることを疑わない。 これは今で言ったらストーカー。愛情というより執念に近い。

念願かなって彼女の夫が死んだとき、彼が恋に落ちてから51年と9ヶ月と4日目、彼は彼女の夫の葬式の後、再び彼女に愛の告白をする。当然のごとく、彼女はものすごい嫌悪感を感じて、もう二度と来るな! といって追い出す。

ところが、ここで終わらない。彼は再び彼女にラブレターを送り、それも、若い頃のとはちがう、思慮にとんだものを送り、彼女はそれで夫を失った悲しみから立ち直り、感謝すらし始める。そこで、しめたとばかりに、彼女の息子夫婦を丸め込んで、年寄りの慰めになってやってくれと言わせ、気分転換に船旅でも(ちなみにこの男はこのとき船舶会社の社長だった)、と誘い、まんまと、結ばれる。船の旅で、二人は老夫婦みたいに、しわしわの身体、垂れ下がったおっぱいや力のない肉体で愛し合う。

が、身分のある彼女が未亡人とはいえ80近くになって男と旅をしているのがばれるのはマズイ、ということで、船でコレラが出たということにして、他の客を全部拒否して帰路につく。さいごのさいご、岸につくかというときに、検疫を受けろといわれ、船は逃げ場がなくなる。

じゃあ、また川を上って逃げよう、と男はいう。それに対し、いつまでそんなことを続けるのか、と船長は問う。そして答える。「命の続く限りだ」。この答えは53年7ヶ月11日前から決まっていた。

と、ざっくりこんな話。すごすぎる、これは一生をかけてストーキングしてそれが実を結んだ話、みたいに読める。みんなの身勝手さもすごいが、人生は終わっちゃえば終わりなんだから、好きなようにとことんやるさ、というのが伝わってくる。

それから、女の気まぐれさも。 すごいぞ、と思う反面、でも、ここまでじゃなくとも、例えば新しい恋人ができても、忘れられない人がいるというのはざらにあるはなしだろうと思う。ただ、それが身を結んじゃうところがすごいが。

この男がたくさんの女性遍歴を重ねてきたのも、なぜ女性に愛されたのかも、たぶん、その「忘れられない人」がいるというのがポイントなんじゃないかと思う。 気楽な関係でいたいと望む女からすれば最適、恋をしているほうから見たら、捕まえられない男と言うのはますます追い駆けたくなるものだ。だから、ある種の女性から見たら、この男はひどく魅力的で、愛の対象としては素晴らしい人だったのだろうと思う。

しかし、二十歳くらいから80歳近くまでの生涯が、一冊の本の中にあり、それを一晩で読んでしまうと、ああ、自分が80になったとき、かつて恋した人に会ったらどうなるんだろうなぁ、なんて考えてしまった。人生はとっても短そうだ。

この本は、主人公の女の夫がその友人の死に目にあうところから始まり、おなじ日にその博士も死ぬ。死、老い、というものが生々しく溢れている。

オススメ。

こどもに礼儀正しく接すること

昨日、こどもを迎えにいったときに、担任の先生が「今日お子さんははじめてtime outさせられましたよ」と教えてくれた。

Time outとは、古典的日本の躾方法で言うと「廊下でバケツ」みたいなものだが、教室の端に連れて行かれてそこでしばらく座って他の子が静かに作業しているのをみていなさい、というもの。

どうやら他の子の髪の毛をひっぱって、お仕置き部屋(部屋みたいに仕切られてはいないが)送りになったらしい。

我が子の通う学校はモンテッソーリスクールなので、教室の中にいるこどもたちは基本的に全員違った作業をしている。教具は1セットずつしかなく、自分のやりたい教具が使用中の場合、他の子がつかい終わるのをまつ。

しかし、うちの子は日本語以外の環境にいるとだいぶ口数が少ない。日本語では言える「ままがおわってから、○○ちゃん(自分)がやる」とか「貸してください」「遣ってもいい?」などといった、順番を待つとか、人に使用許可を得るとかいうのを英語で言うことが出来ないので、引っ張ったり奪ったり、問題になることが多い。そしてそのとき、きちんとI am sorryが言えるかどうか。

こういう社会的な言葉は、英語で言えるようにしてやるのが大人がすべきサポートのひとつなんだろうと、いまさらながら実感してきている。

そういう話し方を身につけてもらう為には、親であるわたし自身がこどもに対して、礼儀正しく接するのが第一だ。なかなか出来ていないけれど。わたしは自分のこどもに対して、他の人には絶対にしないような無礼なことをすることが度々ある。親子だから、という甘えたフィルタで正当化しているが、やはり肉親とはいえ他人に対して無礼に接すべきではない。まして、こどもならなおさら、親の態度がなによりも大きい比重をしめるのだから。

モンテッソーリの学校では基本的に何をやっていてもいい。例えば食事の時間でも眠かったら寝てもいい。ただし、他の人の邪魔をしないこと。人の邪魔をしないというのは、他人がしている作業やそれに費やしている時間を尊重するということだ。

我が身を省みると、例えばこどもが絵の具遊びに熱中しているそばで「そろそろごはんにしたいから絵の具おしまいね!」とか言う。そこでせっかくの集中力は途切れるし、それに熱中していると言う事実を軽視しているし、とても無礼だ。でもついやってしまう。わたしはこどもに邪魔をされると怒るが、自分がこどもの邪魔をしていることもかなり多い。

こどもに対し礼儀正しく接することは、以前書いたように「あなた」メッセージではなく「わたし」メッセージを使うことにも通じるはず。

親業日々修行である。

なぜ子育てに賞罰を持ち込むべきではないのか

こどもに関わる本を読んでいると、よく「賞罰」に頼った子育てはよくないという記述をみる。そして、その前後には必ず、そうはいっても賞罰を用いた教育方法は非常にポピュラーで、多くの親がそれを肯定している、とある。

それはなぜなのか。

私自身の話をすると、まさに賞罰によって育てられ、それによる悪影響を感じているひとりである。私の親は、わかりやすい罰は使わなかったが、賞で私をつった。例えば、学校の勉強で上位何番以内に入るといくら貰えるとかいったやり方だ。私は絵が得意だったので、よく学校で何らかの賞をもらったが、母はどんな絵を描いたのかにはあまり興味がなく、貰ってくる賞状をほめた。

罰が害があるだろうことは容易に想像がつくが、賞を与えることは一見問題がないように見える。が、大いにあるらしい。

親業―子どもの考える力をのばす親子関係のつくり方
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親業―子どもの考える力をのばす親子関係のつくり方

この本によると、アメリカの親は賞賛の言葉や者を多く与えることをすすめる情報に流されていて、こどもたちは毎日、ほめことば、特権、キャンディー、アイスクリームなどを用いて、毎日親にコントロールされているらしい。こうして育てられたこどもが、勝つこと、見かけのいいこと、トップになること、そして負けるのを避けることに力を注ぐ傾向が強くなるのは当然だ、といったことが書いてある。

トップであること、上手にできること、勝つこと、それらを達成すると賞をもらえるということは、そうできない場合、自分はダメだと思ってしまう。失敗した理由はやり方がまずかったのかもしれないが、人間がダメだったわけではない。同じ人間が違うやり方でやれば成功するかもしれないし、プロセスで学ぶこともあるだろう。それをやった自分に誇りを持てれば結果が悪くても不幸にはならない。

しかし、結果だけを見て賞を与えられると、結果をだせない場合どうしてよいのかわからなくなる。自尊心が低く、自分のことを認められるのはトップをとって親にほめてもらえたときだけ、となると、それ以外の多くの場合はいつも自己嫌悪に苛まれることになる。自尊心が低いというのはこういう場合にとても弱い(自分の場合がそう)。

また、そもそも賞が与えられない場合、やる気にならないという問題もある。その賞が自己の中から湧いてくる達成感だったり、充実感だったら、他者から与えられる賞に依存せずに、自分のやりたいことを自分の為にすることが出来る。

上記は、これをしたらこれあげる式だが、その逆もあるようだ。これしてあげたんだからあれしてくれ式だ。

「こんなに何でも買ってあげているのに」とか「こんなに可愛がっているのだから、愛してくれ」とかそういった類いのものだ。これらは賞罰とはちょっと違うけれど、何かを先に与えておいて見返りを期待するやり方だ。実に押し付けがましい。

これを大人の世界の人付き合いで考えてみるとよくわかる。意中の相手にプレゼント攻撃を仕掛け、だから交際しろと迫るとか、友人に色々してやって、だから自分にもくれ、と期待するとか。なんと迷惑で押し付けがましい人たち、と感じるだろう。

けれどもこれは親子の間ではよく起こりうるらしい。

愛着障害~子ども時代を引きずる人々~ (光文社新書)
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この本の中で例としてあげられていた夏目漱石の場合もそうだったらしい。漱石はいろいろと養父母やら実家やらを点々として育てられたらしいが、養父母がこのタイプだったらしい。漱石に何でも買ってやり、ちやほやと育てるが、いつも「お前の本当のお母さんは誰だい」などとしつこく聞いては、漱石の愛情(それは漱石が気を遣って言う嘘であっても)を確認しなくては気がすまなかったらしい。

この結果、漱石はいわゆるスポイルされたわがままなこどもになったらしい。ほしい物があると泣いたり座り込んだりして手に入れるまで動かなかったり。ときどきデパートなどで見かけるあれだ。うちの子も時々それをすることがある(おっぱいに対して)。気をつけないと。

賞罰によるコントロールされるということは、自己の中に確固たる軸がないということとも言えるのではないか。自分の中に確固たる軸がある人は、強い。

なぜ子育てに賞罰を持ち込むべきではないのか、の結論(仮)。賞罰によって他者にコントロールされ、評価の基準が自己の外におかれることによって、自己肯定感が育たず、結果自尊心が低くなってしまうのではないか。

親の愛情は何でも正当化できる魔法ではない

親業―子どもの考える力をのばす親子関係のつくり方
トマス ゴードン
大和書房
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こどもの頃いつも思っていた。

「親の愛情という言葉で正当化してこどもを傷つける行為がまかり通っているのは許せない」

いつもいつもそう感じながら、そういう行為を繰り返す親を憎んでいた。

しかし「親の愛情」に対して反抗することは、自分自身が「悪い子」になってしまう。それが納得いかなかったけれど、でももう悪い子でもいい、これ以上傷つけないで、そう思っていた。

「あなたのため」

その言葉をのせればなんでも正当化されるのか。言葉では「あなたのため」なんて言っているが、本当はそれを言っている本人が自分の満足の為にやっているのではないか。私には親が自分のことばかり考えているのに、それを「こどものため」なんて言う一見奇麗な言葉で飾り立てているようにしか見えなかった。

これを読んでいて「わたしメッセージ」と「あなたメッセージ」というキーワードが出てきた。こどもに対して効果的でないメッセージにはいつも「あなた」が入っている、という。例えば

やめなさい。
そんなことをしてはいけないよ。
あかんぼうみたいね。
こうしたらどう?
いい子にしてね。
ばかだな。

などだ。これらのメッセージはたいていこどもに指示をするものだったり、こどもをやっつけたり、辱めたりするものだ。これらの「あなた」メッセージでは、問題の所在が相手(この場合はこども)にある。

こういうことを言われるとこどもは(大人でも)むっとするし、反抗したくなるし、自分はいけない子だとおもってしまう。また、親が具体的解決策をメッセージとして送ると、その裏でこどもには「おまえの思いつく解決策は認められない」といった親のメッセージが伝わってしまう。

上記のような言葉を言いたくなる場面で、同じ事象に対して問題の所有者を自分にした「わたし」メッセージを送ったほうが、こどもの抵抗が少ないらしい。

わたしは怒っているの。
その本はとても大切な物だからその上に乗られるととても気になってしまうの。
ご飯を食べているときに邪魔されるのは嫌なの。
痛い! 髪の毛引っ張られると痛いの!
怪我はない? よかった! 心配したのよ!
疲れているの。

これらは問題の所有者は親(わたし)。「わたし」メッセージの場合、わたしがどう感じているか情報を提供しているだけであって、相手を否定したりやっつけたりしているわけではない。

大人同士の場合を考えてみるとわかりやすい。大人同士で直接、あなたメッセージで避難したり指示したりやっつけたりすることは礼儀正しくない。例えば、家にある触ってほしくない物を触られた場合「触らないで!」と叫ぶかわりに「それはとても大切な物なので、(わたしは)触ってほしくないんです」と言う。こどもに対しても、そういう態度でいるべきだし、そうすることでこどもも他の人に無礼な態度をとらなくなるだろう。

しかしなかなか、現実ではついついこどもに対して「あなた」メッセージを使ってしまうことが多い。特にしてほしくないことがあるとつい、「やめて!」と言ってしまう。また、「わたしメッセージ」に見せかけた『あなたメッセージ」を送ってしまったりする。例えば「それは無礼だと(わたしは)思うよ」とか、実際は「(あなたは)無礼だ」という「あなたメッセージ」を「わたしは思う」で「わたしメッセージ」に偽装したりする場合だ。

なかなか難しい。

自分が言われて悲しい、むっとすることはこどもにもしないように気をつければいいのかもしれない。自分のこどもでもそれは別の人であって、こどもだからといって無礼な態度で接していいわけではない。

親業日々修行である。

Alfie’s Alphabet & Numbers ファンタジーじゃないのがいい

Alfie's Alphabet
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Shirley Hughes
Random House UK
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近頃娘が気に入っている本。2歳2ヶ月。

時々行く本屋でたまたま見つけたのだけれど、期待以上に気に入っている様子。

娘 には日本語をきちんと話してもらいたいので、私は基本的に日本語でしか話しかけないようにしていた。多言語教育の原則として、この人はこの言葉、という マッチングが大切だと以前に読んだことがあったのでなおさら。しかし、ここ最近、私が英語で話しかける必要性もひしひしと感じてきた。

娘の学校はなんだかもう本当にいろんな国籍の子がいて(18国籍くらいときいた)、メインの先生は英語ネイティブ(もしくはネイティブに準ずる)、クラスルームアシスタントは英語と現地語半々くらいでしゃべる。

そんなわけで、私は『英語と現地語は学校で覚えてくるから家では日本語を徹底しよう』と最初は思っていた。英語で話すのが多少遅れてもいつかは話すさ、と気楽に考えていた。

が、 最近娘は、他の子のものを奪ったり、貸さなかったりして喧嘩になったりすることが増えた。日本語では「○○を貸してください」「ありがとう」「じゅんば ん」などときちんと言えるが、それに匹敵する英語がでてこないので、むりやり奪ったり、手をだしたりするらしい。時々、言葉の通じない相手に日本語で一生 懸命「かしてください、かしてください」とお願いしている娘を見て、なんだか申し訳なく悲しくなってきたので、そういう必要のある言葉は家でも使うように した。

そんなわけで、アルファベットの本を買ってみた。

AはAlfieのA、それから妹のAnnieのA。Bはベッドタイ ム、それからブランケット。といった具合に、Alfieくんの生活している姿を描いた素敵な絵と一緒にABCが紹介されている。Alfieくんとその家族 がなんだかとても素敵な雰囲気なのがよい。兄妹、家族、ご近所様、公園、おばあちゃん、そいういこどもの周りにある環境が描かれていて、ストーリーや人間 関係を想像しながら読むのも楽しい。

AはappleのA、みたいにオブジェクトとアルファベットが書かれているものよりずっと、言葉が実感として伝わってくるんじゃないかなぁ、と感じている。

それから、2歳くらいの年齢は、ファンタジーではなく現実にあるものについて知識を深めるべきな時期らしい。しかし、こども向けの絵本はファンタジーが多く、動物が二本足で歩いていたり、しゃべっていたり、洋服を着ていたり。この本は、そういうのがいっさいないのがよい。

シリーズ物で数字の本も買った。

Alphie's Numbers (Alfie)
Alphie’s Numbers (Alfie)

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Shirley Hughes
Red Fox (2013-03-18)

こちらも同じようなかんじで、シーソーするには2人ひつようだね。AlfieとAnnieの靴があるよ、2ペア。全部で4足、と言った具合に、ひとつひとつの絵にストーリーがある。

家族の絵などを見て、これママ、これパパ、これわたし! なんて言いながら数を数えたりする。

他にも色々あるようなので、ちょこちょこ買い足していきたい。

コミュニティに迎合する為に身体を切り売りして友人を買収して幸せになるお話の絵本

にじいろのさかな (世界の絵本)
マーカス・フィスター
講談社
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以前、娘へのプレゼントとしていただいた本。とても奇麗な絵とキラキラ光るそのうろこに、こどもは飛びつくに違いない。

しかし、せがまれるままに読んでみること数回、どうしても違和感を感じずにはいられない。この本を娘に読み続けたいかと自問するとNOという答えが出る。ついに、押し入れにしまい込んだ(せがまれないように)。

ストーリーを簡単に書くと…

にじうおと呼ばれるキラキラ光る美しい鱗をもった魚がいた。まわりの魚たちはそのキラキラ光る鱗をうらやんでいた。一匹の魚が「奇麗な鱗ちょうだ い」ってくる。でもにじうおはあげないで得意げに泳いでいく。その噂が広まって、海じゅうの魚たちからにじうおは無視される。ちやほやされなくなったにじ うおは悲しくてタコに相談に行く。

私はこの先、それぞれの魚はそれぞれ美しさがあるのだ、という話に落ち着くのかと期待していたが違った。

その後、にじうおはタコのアドバイスに基づいて、自分のキラキラの鱗をいちまいいちまい、他の魚にあげていく。周りの魚はどんどん貰いにくる。とうとう最後にはにじうおのきらきらの鱗は一枚だけ残り、にじうおはそれでもハッピーになった、というお話だった。

これって、友人をもの(しかも自分の身体の一部)で買収している話じゃないか。そしてハッピーになった理由は自分がポピュラーになったから。でもそ の時点で自分の持っていた美しい物はなくなり、じぶんも他の魚もみんな同じになっている。お話はポピュラーになってハッピーになった時点で終わっている が、このあともうあげるもののなくなったにじうおは、きっとまたハブられるか、少なくともどうやって他者と関係を築いていけばいいのかわからずに苦悶する に違いない。買収以外の方法で友達を作ったことがないのだから。

にじうおの当初の高飛車な態度はもちろん問題ありだと思うが、それよりも集団で無視するとか、誰かが一枚貰えたからと言って、わらわらとおこぼれに ありついてほとんど身ぐるみはがすようにしてきらきらの鱗を持っていく集団とか、そっちの方がどうなの、とおもう。にじうおはそのコミュニティに同化し迎 合する為に、自分の鱗を対価として払っている。にじうおがタコのアドバイス(というか指示)をそのマンマ受け入れていたり、にじうおの幸せの基準が、自己 にあるのではなく、他者に受け入れられたと言うことだけに根ざしているのも危険な感じがする。

また、他の魚たちの立場が正当化されているような書かれ方なので、自分たちと違う姿の者は無視してもよい、或は美しい者を持っている者がいたらそれ にたかってもよい。富は公平に分配されるべきであり、そうするように圧力をかけるのは正義であり、富を分配しない者はコミュニティからはじかれるのも当然 である、といったようなメッセージも伝わってくる。なんとういうか、共産主義的。

これはシェアの話ではない。身体についているきらきらの鱗は、持って産まれたものだ。それはシェアするものじゃなくて、尊重するものだと思う。にじうおにはにじうおの美しい鱗があるが、他の魚には他の魚のいいものがあるだろう。

私が娘に教えたい幸せとは、こういうことじゃないな、と、ブログにかきながら再確認した。

アマゾンのレビューでかなり好評かなのが驚きだった。amazon.comの方をみると、★5つと★ひとつが同じくらいいるので、英語圏では評価がまっぷたつに分かれているようだ。

贈ってくれた方には申し訳ないが、我が家ではお蔵入りにします。

こどもを通してこどもの頃の自分を見る

※はてなブログから引っ越してきました。

ものすごい久しぶりにはてなに戻ってきたら、はてなブログというのが出来ていた。はてなダイアリーとはてなブログのにたようなサービスが二つならんでいるが、とりあえず新しい方を使ってみることにした。

最近、娘を学校に送っていく道中、二人で大声で「きしゃきしゃぽっぽぽっぽー! あっ! ひこうきだー! ぶーん! いってらっしゃーい!」なんて叫びながら、いろんなことが浮かんでくる。

浮かんでくることの多くは、こどもだった頃の自分の姿だ。そして、こんなとき私は親からどういうふうに相手をしてもらったんだろう、とその都度思い、そしてたいてい、ああ、私ってかわいそうなこどもだったんだなぁ、と感じてしまう。

こどもの頃、よく周りの大人に『かわいそう』と言われた。それは幼い頃に父と死別したから、ということに対して言っていたのだろうけれど、私がそれがとてもとても嫌で仕方がなかった。かわいそう、という同情は、とてもひどい侮辱だと感じていた。かわいそうってなに? 私はかわいそうなんかじゃない、かわいそうなのは若くして死んでしまった父だ、そう思っていた。

けれども今、娘を通してみるこどもの頃の自分は、父親を亡くした、というその一点でかわいそうなのではない。残された母親がどういう風に自分を扱ってきたのか、どういうことを言われてきたのか、どんな選択肢を与えられてきたのか、どんな家族だったのか、そういうことをいちいち考えさせられるからだ。

若い頃とてもよくしてくれた人に言われた言葉。

「お前は生まれはいいが育ちが悪い」

今、とても胸に突き刺さる。本当にその通りだ。育てられていなかったんだ、って今になってわかる。自分は勝手に育ってきたんだ。きちんとガイドしてくれる大人が周りにいなかった。

娘はモンテッソーリという教育方法で育てているが、そこでは大人は環境の一部であり、こどもを導くガイドであるという考え方だ。完成品を与えたり、知識を与えるのではなく、自分で知識や能力を吸い取っていく為の方法や方向をガイドするのが大人の役目。

私にはガイドもメンターもいなかった。本ばかり読んで、周りの大人は誰一人信用していなかった。誰かにガイドしてもらおうと言う素直な心もなかった。

アダルトチルドレンの救済方法に、インナーチャイルドを癒すというのがあるらしいが、今私が感じている、こども時代の自分というのがいわゆるインナーチャイルドなんだろうか。

だったら癒してやらねばと思う。そうしないといつか、娘は私の中のかわいそうな子に気づく。